March 11, 2017

『もったいない語辞典』から「綺麗」

3月3日付、読売新聞夕刊の『もったいない語辞典』に「綺麗」という言葉を寄稿しましたので紹介します。

「綺麗」  中身の充実や覚悟を切り取る

 「鳥取も90センチの積雪を記録しました。ご覧のように、雪が綺麗に積もっています」。雪原と化した市街地を棒で指す予報士の言葉選びに、耳を疑った。死者が出ているというのに「綺麗」とは何事か、と。
 予報士の弁護をするつもりはないが、この場合の「綺麗」は大地を「すっかり」覆うほどの意味で、美しいとは言っていない。 あった物がなくなった時でも、たとえば「綺麗に食べたわね」は隙間無くやるべきことをきちんとやったことを認めていて、言われて嬉しい。「綺麗さっぱり、財布に一文無し」というのも「綺麗な別れ方」も、決定的な状況のなかで人がちょっと羨むような潔さを漂わせている。
 よれよれのTシャツはどうだろう。皺を伸ばし綺麗に畳める人に会うと心の豊かさを感じる。
 「綺麗」は、外見に目線を合わせているようで、実は中身の充実や覚悟みたいなものを切り取っている。
 温泉の浴場で、父親が幼い子に「静かに入りなさい」と諭しているの聞き、ハッとしたことがある。「静かに」も、英語の「クワイエットリー」にはない豊かな身体性がある。
 綺麗なだけの人もいる。可哀想。それでも「イケメン」とか「かわいい」で拾えない響きが「綺麗」にはある。響きは大切で、消されてしまうともったいない。
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 夕吉は、マグカップに「綺麗」にハマりました。   
   
   
   
   
   
   

March 10, 2017

為末大さんと対談してきました。(NHKワールドFace to Face 3月26日放送)

為末大さんと対談してきました。

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場所は為末さんが館長を務める新豊洲Brilliaランニングスタジアム。

    

日本初の障害者アスリート育成施設で、昨年12月にオープン。

 

      

Brillia は完全ユニヴァーサルデザイン。

障害者も健常者もともにトレーニングできる、日本ではめずらしくオープンで本格的なスポーツ拠点です。

   

   

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 スポーツがあることで

街がどう変わるか、

などなど、

為末さんの

豊富な出会いと

経験から

素晴らしい話をいくつも聞くことができました。

   

走ってみるとほどよい反発があって、風も光も気持ちよかったです。17203048_1446411288716554_8496175277262480917_n.jpg

NHKワールドFace to Face 3月26日(日)放送です。

   

   

   

   

   

   

   

March 9, 2017

『騎士団長殺し』を読んで

 村上春樹『騎士団長殺し』(2巻、新潮社)の書評、昨日(3月8日付)の朝日新聞朝刊に掲載されています。

 

「私」が再生する物語

 最後に分かるのは、山荘の周辺に起きた奇妙な出来事から現在まで、すでに十年近くが経っていること。最初に明かされるのは、語っている主人公・肖像画家である「私」がストーリーが回り始める前から別れていた妻とは復縁し、小説の舞台から遠く離れた場所で過去のことを思い出しているらしい、ということである。

IMG_1013.JPGのサムネイル画像 夏目漱石の『こころ』の語り手「私」がしばしば「先生の話が益(ますます)解らなくなった」等とふり返るように、春樹の「私」も経験豊かで謎めいた年上の免色渉(めんしきわたる)という相手から言われることを度々「よくわからなかった」、という具合である。春樹の「私」は、生来人前で言うべきことを黙って言わない、どちらかと言えば内気なタイプ。にもかかわらず、千ページを超える大作の一部始終をコンパスで製図したごとくきっちりと語りきっている。記憶に揺らぎはなく、目に見えて耳に聞こえるすべての現実、人によっては見えないけれど実存するディープな非現実も、果てしなくフラットに詳述されていく。

 単調で穏やかそうに見える山中の日々を、少しだけ先に設定された細々(こまごま)とした約束が運んでいる。夜中に鳴る不気味な鈴の音源を免色と一緒に探ろうという「今夜の十二時半」の約束。絵画から飛び出した小っちゃなイデア=騎士団長が同伴する四日後、火曜日に予定される夕食会。二日後という「私」が設けた、免色の娘と思われる少女の肖像画を描くかどうかの決断期限。その間に、人知の及ばない切実なドラマが降って湧く。短距離に連なる未来たちの間を縫うように、主人公は過去を省み、「むしろ失ってきたもの、今は手にしていないものによって前に動かされている」意識を深めざるを得ない。

 単調(な描写)から読者を掬い上げ、目覚めさせ、緊張の渦に巻いてくれるのは「私」が本来嫌いな暗く閉ざされた狭い空間の風景。小さな棺。祠の奥に潜む石室。離婚届が入った返送用封筒。顔のない男のいる深い「メタファー通路」。真実をめぐるいくつもの暗闇を抜け、「私」が再生する物語である。

 朝日新聞社に無断で転載することは禁止されています。承諾書番号「A16-2882」

  

朝日新聞デジタルでもご覧頂けます。

March 6, 2017

これぞ暁斎!ゴールドマン・コレクション展 「祈る女と鴉」作品評

Bunkamuraで開催中の「これぞ暁斎!ゴールドマン・コレクション展」から、展示作品である「祈る女と鴉」について作品評を寄稿しました。今日の「東京新聞」夕刊から。

全文をここに紹介します。

   

 鴉に透ける暁斎の影

 謎めいた風景に想像が膨らむ。女はなぜ祈るのか。17103800_1442809312410085_26697156829086216_n.jpg

 日が暮れなずむ座敷の縁側。遊女は風呂上がり、汗が引くのを待つ間にうつむき加減で一点を見つめている。それをぐっと前景から拡大させた格好で鴉(からす)が眺める。忙しい夜の、支度に入る前の一コマである。

 髪を江戸初期にはやった唐輪髷(からわまげ)に結い、紫陽花(あじさい)模様の長襦袢(ながじゅばん)をぞろりと身に纏(まと)った遊女は、腰の辺りに紅白の紐(ひも)を垂らしている。庭に可憐(かれん)な花を付けた合歓木(ねむのき)が植えてある。葉っぱは開いている。しかし絵師は、薄墨で夜気を描き、簾(すだれ)の衝立(ついたて)の間から部屋に滑り込ませるのを忘れていない。昼と夜が交わる時刻と見受ける。

 水をたっぷり張った角盥(つのだらい)が後ろにある。角盥は、七夕の夜に縁側に出して、牽牛(けんぎゅう)と織女の星を水に映してその光で針穴に糸を通そうとするが、通れば「吉」となる。合歓木も紅白の紐もともに乞巧奠(きっこうでん)、つまり七夕の祭事にまつわるものばかりである。

 さて遊女は芸の上達を祈っているとして、遊女を私たちに近い場所から見守る鵲(かささぎ)ならぬ、鴉は何者か。私には他ではない、鴉の絵で一世を風靡(ふうび)し、画道への精進を誓った画鬼・河鍋暁斎その人の影が透けて見える。

March 5, 2017

金曜の夜は、上野のミュージアムへ!

金曜日の夜は、上野のミュージアムへ行ってみませんか?

3月の毎週金曜は「上野の杜」で多彩なイベントが開催されます。

僕が登場するのは、3月17日(金)19時〜20時のフライデーナイトセッション!

NPO法人インビジブルの林曉甫さんをモデレーターに、国立西洋美術館研究員の袴田紘代さんと共にアートトークを繰り広げます。

好きなアート作品や、美術館の楽しみ方をご紹介する予定です。

事前申込制、お申し込みはこちら・・・→

March 5, 2017

ドキュメンタリー『FAKE ディレクターズ・カット版』【DVD】監督 森達也

森達也のドキュメンタリー「FAKE」ディレクターズ・カット版DVDが昨夜自宅に届きました。
公開から1年間。「虚報」が世界中に物議をかもし、民主主義社会の根っこにあるものを揺らしまくってきました。
ウクライナにおけるロシアのdezinformatsiya(虚報戦術)、米大統領選挙中、そしてトランプ大統領が就任後メディアを攻撃するのに使うスローガンとしてのfake news。

16999025_1439314312759585_9003870251871193775_n.jpg「作曲」の真否という日本で起きた小さな出来事を追っていますが、世界の気流、フェイク・ニュースの奇々怪々を眺望できるようなマンションの一室が熱い。

  
映画館パンフに書いたエッセイ「ショートケーキと猫の目」も再録。

  

  

  

  

February 25, 2017

江戸の心意気 味わう喜び/『日本経済新聞 』2月25日NIKKEIプラス1「食の履歴書」より

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日本経済新聞、今朝の「食の履歴書」にあの仔と一緒に登場。

夕吉のソファになった自分が撮られていると言った方が早いかも!です。

 

 東京はニューヨークやロンドンと違って若い料理人が頑張ってオーナー・シェフになれる道がいくつもあるという強み、「近所」からの発見についても少し語りました。

  

  

爪と肉盤をぎゅっと伸ばす夕ちゃんはそうよそうよ、と同意を示すご様子。

   

     

   

   

February 18, 2017

静かな言葉に変わる「反対」/『北國新聞』2月17日付夕刊「泣き笑い日本のツボ」より

 北國新聞と富山新聞に毎月1回書いている「泣き笑い日本のツボ」は、連載開始から2年目に入りました。

 北國新聞では2月17日(富山新聞では2月18日)に掲載された文章を転載します。

   

静かな言葉に変わる「反対」 トランプ政権誕生1カ月
  
 トランプ政権の誕生から一カ月を迎えようとする今、アメリカでは新大統領を支持するか否かを問わず、政権運営の混乱ぶりに異議を申し立てる声が多い。既成権力をワシントンから追い出す約束を守るべく登場したトランプ陣営だが、はやくも内側から亀裂が走り始めている。
  
 大統領の再側近で日米安保のあり方に巨大な影響力をもつ国家安全保障担当のマイケル・フリン大統領補佐官が、一カ月足らずで辞任に追い込まれた。就任する前、つまりオバマ政権末期の昨年12月、一民間人として駐米ロシア大使と複数回電話で話し、アメリカの対ロ制裁見直しを示唆したという。
 外交に干渉したことは問題だが、かつて同じ役職にいたヘンリー・キッシンジャー氏がニクソン大統領の就任直前にソ連のスパイと会って密談したこともあり、前例のない行為であったわけではない。辞任を決定させたのは、フリンがその事実を副大統領に正確に伝えなかった、つまり嘘をついたことがバレたのである。その2日後、トランプ氏が労働省長官に推薦したビジネスマンが不法滞在中の人間を清掃員に雇った過去があることが知られ、議会から非難を向けられたために指名を辞退するという出来事があった。
  
 非難が渦巻くワシントンから離れてみても、トランプ流のポピュリズムそのものをめぐって、いくつもの亀裂が生じている。よく言われるように、右と左、白人種と有色人種、都会と地方、富める者と持たざる者という具合に、アメリカは複雑に分断されている。メディアへの不信感も募り、多くの人々は、現状に対する違和感や抵抗をどう表現すればいいか迷っているように見える。
  
IMG_3098.jpg しかし、ここ2週間ほどで、トランプ氏が進めようとする排他的なアメリカ・ファーストに対する抗議の仕方に、ひとつの変化が見てとれる。選挙中から就任直後の大規模なデモは規模をしぼりながら各地へと広がっていることと、影響力の強い芸能人らによる非難や呼び掛けが一見穏やかになった、ということである。
  
 記憶に新しいのは先週、米国最大のスポーツの祭典であるスーパーボウルのハーフタイムショーでレイディ・ガガが語り、そして歌った言葉だ。選挙後強烈な抗議を繰り返したガガだが、ここでは米国人なら誰もが愛国心を感じる「第2の国歌」God Bless America(アメリカに神の祝福あれ)と、平等と自由を謳歌したウッディ・ガスリーのThis Land Is Your Land(この国はお前の国)の一節を歌い、国民全員が諳誦している忠誠の誓いからは「神の下に不可分の一つの国歌、万民のための自由と正義」のくだりを朗唱した。
 前者は迫害を逃れ、ロシアから米国に移民した作曲家アーヴィング・バーリンの名作、後者は60年代の公民権運動では主題歌として歌われたフォーク・ソング。歌詞の中には「ぶらぶら歩いていると看板が見えた/表には「立ち入り禁止」/でも裏には何も書いていない/そっち側がみんなの場所だ」と続いている。
  
 「反対」の形は大勢で声高に、から一人ひとりへ、心と記憶に訴える一層強力なメッセージに変わろうとしている。静かだが、穏やかではない。
  
(東大大学院教授、日本文学研究者)

September 11, 2016

社会の中で、自然に/『天理時報』9月11日付「キャンベル教授の日本再発見」より

 過日、ロンドンの大英博物館を訪れたことを書いたが、大英博物館はとりわけ古い市街地にあって、ホテルも近かったので滞在中は朝夕、博物館の周りを散歩するのが楽しみになっていた。
 たとえば、キングス・クロス駅のほど近くには「コーラムズ・フィールド」という場所がある。古い鉄柵に囲まれた、緑豊かな公園である。

 中では親子と見える人たちが遊んでいる。入り口の看板を見ると、「子供と、子供が同伴する大人の立ち入りのみを許す」とある。子供の入場制限を設ける公共施設が多い世の中、しばらく看板の意味が理解できずに立ち止まっていた。
 近くにいた職員に聞くと、この緑地の母体は「公園」ではなく、昔から民間の有志が管理するいわば児童福祉の非営利団体である、とのこと。18世紀末の産業革命で、恵まれない子供たちが過酷な労働を強いられ、遊ぶ場所もなくなったので、せめてここは子供本位でいこう、という精神で作られたそうだ。
「子供を伴わない大人は入れない」と思うと、不公平にも聞こえるが、経緯が分かると逆に嬉しくなる。
 民間主導で、出来る人から少しずつ関わっていくというシステムは、18世紀から英国社会にも根づいていたわけである。  

   

IMG_1228.jpg  日本語で「恵まれない」と言うと、少々湿っぽく聞こえるが、社会に存在するハードルに向かって頑張っている人たち「challenged people」と言うほうが、前向きなニュアンスがあるように思う。いまでもロンドンには、そうした非営利の支援団体やお店がとても多い。ある店では、店舗を職業訓練の場として”challenged people”に提供していることを出口のほうにチラリと、けれども強い意志を持って、表明していた。

 支援を必要とする人たちと、支援しようとする人々が、自然な形で共に社会の中にあって、共に関わり合いながら暮らしている。リオデジャネイロではパラリンピックが開幕するが、ロンドンではそんな印象を持った。

 その近くには、ポット入りの苗木を売る園芸店があった。シャクヤクやテッセン、パプリカなど、いろいろな植物の苗が、明るい店内で可愛く小さな顔を並べていた。
 お昼ごろに通りかかったのだが、店内は多くの人でかなりにぎわっている様子。それも、スーツを着たビジネスマンやOLがほとんどである。「苗をどうするの?」と尋ねてみると、皆オフィスに持って帰り、デスクに飾って育てるのだそう。東京ではあまり見かけないな、という印象がここでも浮かんだ。

(『天理時報』9月11日号掲載)