April 3, 2018

「私の東京物語」 【3】 (全10話)

IMG_6567.jpg原宿 東郷神社の夜

 中野三敏先生の父は、敏雄さんといい僕はお祖父様と呼んでいた。戦時中海軍参与官を務めた方で、戦後旧海軍関係者らが発足させた「水交会」に関わり、原宿にある東郷神社の宮司たちとも親しかった。福岡の先生のお宅を訪ねると、お祖父様はいつも2階から下りてきて、お茶を飲みながら僕らの話に耳を傾けてくれた。深みのある立派な声で楽しそうに笑っていた姿が目に残っている。

 中野先生の下で専任講師に就くと、大学から給料が入るようになった。僕は毎月、そのお金で東京に行き、国会図書館をはじめ古典籍(明治以前の日本の書物)の宝庫と呼ばれる場所を歩き回っては、帰りに神保町の古書店をのぞいていた。それを知ったお祖父様は、東郷神社境内に建つ古い宿泊施設を紹介してくれた。若い神職が地方から上京した際に泊まれる小さな2階建ての施設で、看板があるわけでもなく、都会の森にひっそりとたたずむ究極のプライベート空間であった。

 お祖父様の紹介で、お酒1本を携え社務所にうかがうと「いつでも泊まりにいらっしゃい」と、寛大な言葉が返ってきた。根城は2階の六畳一間。押し入れにきれいなシーツと布団がありトイレと風呂は共同。1泊1500円也。地方住まいの大学専任講師にとって福音、いや天の恵みである。それから10年ほどの間、数え切れないぐらいお世話になった。上京する度、夜の原宿を抜けて神社の木立に入り、ぐっすりと眠ることができた。

(平成30年2月9日付 東京新聞朝刊より)

April 2, 2018

「私の東京物語」 【2】 (全10話)

27歳で福岡に

IMG_6566 (編集済み).JPG 27歳の時、福岡市に移住した。僕は直前までボストンのハーバード大学で日本文学を学んでおり、福岡には江戸文学研究の権威で当時九州大学文学部教授だった中野三敏先生(現名誉教授)がいた。中野先生の下で研究の基礎を固めよう、1年たって帰れば博士論文を出し、米国で教壇に立てる、そう考えていた。

 しかし、その後留学を1年間延長し、同じ研究室に専任講師として残ることになったため、結局福岡には以後11年間お世話になった。今、こうして東京で暮らすようになったきっかけは、福岡での最初の数ヶ月にあったと思う。

 広い大学の研究室の奥、窓を右手に前も後ろも本で埋め尽くされた所に机があり、先生はそこに座っていた。昼ごろ現れ、夜の七時ごろまでずっと原稿を書いておられた。同じ3階の大学院生たちがいる国語国文学研究室から内線電話をかけると、すぐに会ってくださる。本棚には江戸文学研究に必要なありとあらゆる書籍が汗牛充棟と積み上げられていた。

 文化文政期の江戸文壇で、文人たちが自分の仕事や人生をどう批評し合ったかに僕は興味を持っていた。それを知った先生は、僕が初めて研究室を訪ねると「ここにあるものは全てもっていっていい」と、段ボール箱を取り出した。開けると江戸文人が書き残したいわゆる学者評判記の板本が10数種類入っていた。彼らの声が響き合うような稠密な「個人情報」で、ほとんどが活字化されていないものだった。下宿に持ち帰って一冊ずつ読み解き、春に先生に返した。僕の旅はこの段ボール箱から始まった、といえる。

(平成30年2月8日付 東京新聞朝刊より)

April 1, 2018

「私の東京物語」 【1】 (全10話)

故郷 ニューヨーク

 DSC_4157.jpg 故郷で古い仲間に会ってきたが町が変わり過ぎて記憶がよみがえらない。東京の友だちから時々そういう話を聞くことがある。私も去年の夏、生まれ故郷のニューヨーク市ブロンクス区を35年ぶりに歩いてみた。友だちとは逆に、町はほとんど変わっていなかったが、古い仲間はもう一人としていない。

 19世紀末からユダヤ系、イタリア系、アイルランド系とさまざまな移民集団ができた。アイルランド系移民に属する祖父母も地縁血縁をたよってブロンクスで家庭をつくり、人生を全うした。13歳まで僕が暮らした5階建て鉄骨タイル貼りの戦前のアパートも、昔と寸分違わず建っていた。長い階段を紙袋2個分の食料を抱えて上ってくる祖母の息づかいが瞬時に甦る。アパートの玄関にあった祖父のクロゼットの甘い匂いも、記憶から漂ってきた。

 今の住人は、その後入ってきたカリブ海や中南米の人か、戦中、南部から移住してきたアフリカ系労働者の子孫である。相変わらずお金を持っていそうな人は、誰もいない。

 アイルランド系労働者移民の浄財で建てられ、母も僕も通った小さな教会とその付属小学校は、窓枠に塗った赤いペンキまで当時と同じだったけれど、扉の張紙はスペイン語で書かれていた。道行く人も、欧州なまりとは違う英語をしゃべっている。

 初めて一人で遊んだ公園に行ってみた。遊具は変わったが、公園で遊ぶ子供たちの笑い声は僕らのころと変わらない。ここで育ち、やがて去れる人から去って行く、この町特有の影と力強さを感じた。

(平成30年2月7日付 東京新聞朝刊より)

March 16, 2018

「零れもの三昧」 story 3 『日本酒の「もっきり」は、おこぼれ文化の最たるもの』

 ライフスタイルマガジン「東京ミッドタウンスタイル」2018年春号に掲載されている連載エッセイ「零れもの三昧」 story 3をご紹介します。

  

 発酵したものならお酒は種類を問わない。外食はとりあえずのビールから冷酒に移るか、シャンパンを二、三杯飲んでから軽めの白、フルボディな赤ワインへと杯を進めることで流れが決まる。寒い夜だけ、生ビールをぐいと一杯傾け、日本酒の熱燗に直行する。冷酒は頼むつどに銘柄を変えたい。熱燗は脇目もふらずお店の奨めに従って生一本、一種類で通す。東京は、国内海外からありとあらゆる美酒が集まるから、長くはここを離れたくない。

 むかし、日本ではお酒を飲む目的が何か、ということが議論されていた。酔うためであるとか味や香りを楽しむため以上に、飲酒という行為そのものが持つ趣(おもむき)、味の外にある人生の「味わい」に通じるものを追究するのが上手い酒だ、という考え方が根強い。

 たまたま私の手許に、お酒の「正しい」飲み方を説いた江戸時代の板本(はんぽん)が二種類ある。どちらも、飲む時に相手との会話がはずみ、距離が縮まるかたちで杯を酌み交わす術(すべ)を教えている。ひとつ目は、『飲夢』という一冊(小原鉄心著、慶応三〔一八六七〕年刊。もと漢文)。「酒を飲んで趣を知らない人は、本を読んで意味が分からない人と一緒だ」と、かなり手厳しい。江戸の酒席では始めに「乾杯!」といくのではなく、宴も酣(たけなわ)に有無を言わさず客と一緒にぐいと杯を挙げてから会を終える習慣があった。だが、それでは酒は十分に楽しめず趣がない、と断言する。「客と亭主が揃えば先ず大きな杯で一杯を酌み交わし、酔いを身に付けておくことだ。そこからペースを落とし、真情を語り合おう。こうしてようやく酒の中の趣を全うするのである」とまとめている。

IMG_6208(左側).jpgIMG_6206(右側).jpgIMG_6202(中).jpg     

 

 もうひとつは、その名も『酒中趣』である(清代・石天基著、嘉永二〔一八四九〕年刊。漢文)。こちらは微醺(ほろよい)を奨める。ちかごろ流行っている晩酌は避けるべきで、気分もまだフレッシュな昼下がりから数杯の酒を飲んで「真の楽しみ」にひたるコツを書いている。

 ひらたく言えば酒はきっかけであり、人生の醍醐味を味わうためのものだというわけだが、ここで思い出すのは日本酒の「もっきり」である。「盛切酒(もっきりざけ)」の略。徳利を使わず茶碗やコップ一杯でいくらと定めて売る酒のこと。注ぎつ注がれつの煩わしさもなく個人主義的で、銘柄の選択にも人柄が表れる。給仕する人が升酒の枡を白い皿におき、または枡の中にコップを置いて、瓶から直接どぶどぶと清酒を注ぎ、溢れさせる。最高である。ヨーロッパでグラスワインを頼むとそのグラスに目盛りがしっかりと印字してあって、一ミリの狂いはない。これに比べると、溢れさせた日本のもっきりはまさに「零れ幸い」で、格段の趣が出る。おこぼれ文化の最たるものだと私は思う。

 出張で博多に行くことが多いが、帰りに必ず博多駅の奥にある住吉酒販という角(かく)打ち(立飲み屋)に寄る。九州一円の美酒をもっきりで飲めるから堪らない。その上にアテも美味く、酒を出す工夫をいろいろしている。好きなひとつは「イロハニ枡」。大きな枡に別々の酒を盛ったガラスや陶器のお猪口を四つ置いてぽんと出す。枡の外側に「イ」「ロ」「ハ」「二」と焼き印が付いていて、何を飲んでいるか瞬時に分かる。盛っている種類が別々なので零したりはしないけれど、零れたように、とてつもなく豊かな気分になる。今度オープンするミッドタウン日比谷にも、住吉酒販が進出すると聞いた。おこぼれをいただきに、早く出かけてみたい。

October 27, 2017

零れものをひとつひとつ 丁寧に拾っていけば

ライフスタイルマガジン「ミッドタウンスタイル」 2017秋号に掲載されているエッセイ『零れもの三昧』story 1をご紹介します。

 刃こぼれという言葉が好きである。包丁が硬いものに当たって欠け落ちてしまうこと。むかし、近所の小料理屋で大将が若い弟子に『こぼれちまったよ」、と力無げに呟くのを耳にしたことがある。わたくしも、ときどき魚をさばく時にやらかしてしまう。角度を間違え、ガツンと太い骨に当たる。音だけ聞くと、冷たく鍛えられた刀のエッジが一瞬に液体に変わり、勢いよく四方に飛び散るイメージを抱く。ぽたぽたこぼれる、というのではなく大胆にバシャッと飛散する。
 刃こぼれの「こぼれ」は漢字で書くと「毀れ」になる。その親戚に、もう一個の「零れ」というのがあって、これはゆるい液体が電車の網棚から頭上にぽたぽた落ちてくる、というような感覚だろうか。容器の内側に収まりきらずに外にあふれてしまう。いい例は涙である。「源氏物語」の昔でも「忍ぶれど涙こぼれぬれば……」というふうに、内部に溜めておいたものが抑えきれずにぽろりと頬を伝って袖を濡らす、というのが古い文学の定番「零れもの」である(「帚木」)。単なるドリップではない。英語のドリップコーヒーが「零れコーヒー」にならないのも、日本語でいうところの「零れ」は容器の存在が前提になっていて、その容器がいっぱいにならないと「余り」が滴ってこないという条件が暗黙のうちにできているからだ。
IMG_1312.JPGIMG_1311.JPGIMG_1313.JPGIMG_1315.JPG
 刃こぼれの次に好きな日本語は「零れ幸い」。辞書を引くと「その身に得る道理や資格がないのに、何かの余徳で受けることのできた利得」。「資格がないのに」とは厳しいお言葉。まさか「棚からぼた餅」が一個ドスンと頭上に落ちてくるわけでもあるまいし、むしろ予期せぬちょっとした喜びを得ることをいうのである。
 そう考えるといろんな零れものがある。ひとつひとつを丁寧に拾っていけば、日本文化の新しい風にひょっとして触れられるのかもしれない。今思い出したのは「零れ梅」という言い回し。ひらひらと散り落ちる梅の花。そこから、梅を図案化した着物の模様や、さらに白い粒に固めた味醂の搾り粕でつくったお菓子の名前。まさに「零れ梅」にふさわしい。一方、風に靡く性格からもうひとつ、幕末の、お客と逢瀬を重ねる芸妓のことを「零れ梅」とあだ名をつけたのもある。奥が深い。
 他の言語と比べ、日本語にはたくさんの語彙が取り揃っているとよく言われる。たしかに英語より多い気はする。また逆に、ひとつの言葉に途轍もなく遠く離れた場所で使われるそれぞれの意味のバラエティが豊富で、私はいつも日本語で話しながら、小旅行にでも出かけている気分になる。
 せっかくの零れものを上手く受け取りたい。上からこぼれている間に見逃さずにキャッチすることが肝心である。そもそも「容器」がいっぱいかどうかの見極めも、難しいけれど、大事なことだろう。ぽたぽたと頭上に落ちてくるものが素晴らしく豊かな場合もあるから、それを誰にどうやってお裾分けすればよいかなどについて、もう少し考えてみようかな、と思う。

「零れもの三昧」は『東京ミッドタウンスタイル』に掲載されている連載エッセイです。

東京ミッドタウンのホームページにある『東京ミッドタウンLIBRARY』では、すべてのページを読んでいただけます。

September 24, 2017

糾える縄のような

原田眞人監督作品『関ヶ原』を観て

 原田眞人監督の映画『関ヶ原』が、久しぶりの骨太合戦映画ということで、興行成績もなかなかいいらしい。このごろ、いろんなところで話題になっている。

 私は幸い、封切り前に観ることができた。そして翌日、原田監督と対談した(対談の模様は映画パンフレットに収められている)。
『関ヶ原』は、合戦の主謀者として斬首され、徳川時代を通して無類の悪者に仕立てられていた石田三成を主人公にしている。大河ドラマの名にふさわしい歴史の糾える縄のような人間模様と、260年の平和をもたらした天下分け目の戦いを大胆かつ繊細に描ききっている。
 江戸文学を好きな人であればピンとくると思うが、三成は、当時の軍記や小説には「いい人」として登場しない。『太閤記』(1634〜37年)では秀頼の佞臣。『武徳大成記』(1686年)では家康と前田利家の間を裂く。『氏郷記』に至れば、蒲生氏郷の辣腕を警戒して秀吉の許しを取り付けた上で毒殺に及ぶというおどろおどろしいエピソードまで書き連ねている。
 東軍だろうが西軍だろうが、大名が一旦徳川家の秩序に組み込まれれば家譜をはじめ、すべての記録に三成へのオマージュは書けない。合戦の責任転嫁と、陰湿きわまりない薄情の人物像しか出てこない。
 徳川氏が政治の舞台から消えた明治では、それとは一転、秀吉の遺訓に背く家康を排除しようとした一種の義臣像が出来上がる。民政に秀でた点など三成のいいところを徐々に評価する気運もあった。
 大きな分岐点は、今回の映画が原作とした司馬遼太郎の名著とされる小説『関ヶ原』の発表である(1964〜66年発表)。高度経済成長を背景に、三成を義に厚い、優れた経済官僚として捉えている。
 原田監督もまた、原作に拠りながらも、司馬史観というものに束縛されていないところが好印象であった。スクリーンに映る人物は、どれもが歳月の中で変化する。大坂城を造る若い時分の秀吉は厚顔無恥で、まるでトランプ大統領のよう。老いるにしたがって体力に自信が失せ、どんどん衰えていく。島左近も小早川秀秋も忍者の赤耳も、戦国の渦の中で功罪や「強い」「弱い」だけで測れない人間味があり、業のようなものを背負って生きている。
 不器用で実直な男として描かれる主人公、三成にはもちろん好感が持てたが、通常裏切り者として描かれる小早川秀秋の微妙な立ち位置に膝を打った。
 合戦の前夜、三成と会った際に心の丈を吐露された秀秋は、その反応として、大きな迷いを生じさせたと監督は解釈する。江戸以前の、戦後日本でも描きづらかった戦国武将の、純粋で深い迷いがこの映画にはある。書きながら、もう一度映画館に足を運びたくなったのである。

fullsizeoutput_1a79.jpeg
(『天理時報』9月24日号掲載)

 

May 28, 2017

教育改革 子どもたちへのメッセージ 四国新聞

キャンベル氏1面のコピー.jpg新学習指導要領導入の目的や、小中高校の授業や大学入試がどうなるのかについて、

四国新聞からインタビュー取材を受けました。

5月27日(土)四国新聞に掲載されたインタビューの全文をご紹介します。

  

大学進学へ自分の学びの形考えて

ー新学習指導要領の最大のポイントは。

キャンベル    戦後日本では、優秀で取りこぼしの少ない均等な教育を築き上げてきた。しかし、今求められているグローバルな人材は、均等で取りこぼしのないような人ではない。それぞれの能力、資質、嗜好、地域性の違いということをポジティブに生かせる教育制度が必要で、グローバル社会の中で日本が競争力を向上させるために不可欠なものだ。これまでの公教育のいいところを残しつつ、どうやってそれぞれの生徒の資質や地域の特性というものを生かし、深めることができるのか。アクティブ・ラーニングはそれができる一つの枠組みだと思う。

ー日本人は発信力が弱いと言われる。

キャンベル    意見の有無は個人に任せてもいいと思うが、継続的に意見が出ないと「何も考えていない」とされ、何も生まれない。一期一会の集まりの絆に関わってこない、体温が感じられないということになる。それはコミュニケーションスキルとも重なってくる。自分の足場、自分の主軸というものを持って初めて発信できる。

    ただ、私は発信という言葉よりも、「交信」を提言したい。交信力がまさにアクティブ。アクティブは一方通行でなく双方向。自分が何を言うのか、何を準備するのか、何を学ぶのか、相手がいることを想定しながら逆算してそこまでやって初めて交信ができる。それは楽しいことで、自分の生きがいも感じられる。

ー日本の教育をどう見てきたか。

キャンベル    日本は読解力など知識の処理能力は高く評価されている。生徒たちは若いときから確かな足場をきちんと築いてきた。しかし、「ゆとり教育」については当初から批判的な立場。ゆとり教育とは内容を提示せず、自由学習と同じで、無責任。何もないスカスカの人たちが18歳になって大学に入ってくる。私は最初からゆとり教育には懐疑的だった。

    アクティブ・ラーニングというのは、学ぶべき基礎的学力を身につけながら自分で思考すること。大学に入ってから思考すればいいと言うのが今の日本の教育だが、本当は中学、高校時代からやっていないといけない。日本の学習指導要領は知識詰め込みの「知識偏重型」といわれるが、知識と、活きる学問「活学」は二項対立では決してない。

ーアメリカとの違いはあるか。

キャンベル    アメリカの公教育は不均等。地域や校区によって、また公立と私立によっても全く違うので、比較はできない。

ーでは、アクティブ・ラーニングを踏まえた授業はどうなるのか。

キャンベル    私は東大教養学部で教えていたが、 東大1年生の初年時ゼミナールで演習としてやっていたのが、テーマを決めて学生に発表してもらい、それを聞いたほかの学生が翌週までに「フィードバック」というリアクションを1枚紙に書くという取り組みだ。

    3年くらい前に「復興」をテーマにしたが、震災、人災、いろんな言葉に復興という言葉がつながる。英語には「リコンストラクション」という言葉もある。「復興」自体が文学でもあり、歴史でもあり、社会学にもなる。これがアクティブ・ラーニングだ。ただ、それがどこに向かうのか、きちんと教師が準備してナビゲーションしなければならない。若い人にロードマップを描くという経験をさせるのは効果的だ。

ー現在の日本の授業は現場の先生からの一方通行と言われている。

キャンベル    先生たちにはさらに研さんを積んでいただかなければならないが、一方では教科書会社が教科書を「工具」として先生を支え、生徒たちに魅力のある、意味のあるアクティブ・ラーニングをそれぞれの教科の中で作ろうとしている。

    もう一つは電子空間を使うことが重要になる。先生の話を聞いて板書を見て写すだけでなく、先生の話を聞きながらインターネットで何かを探し、そしてみんなでそれを共有して議論する。私はこれを「多層化させる」といっている。電子機器を教室の中、またはそれぞれの自宅で使い、結んで学びを深めることはできる。工具というものを先生に向けたものと、先生と生徒が共有して教室で使う、または生徒たちが宿題をするために自宅で使う。こうしたことが必要なのではないか。

ー大学入試が変わることに、保護者や生徒は不安を感じている。

キャンベル    私は不安を感じていても構わないと思う。入試に不安は付きものだ。ただ、「自分は所得が高くない」「文教政策に手厚いところに住んでいない」など不毛な「格差」を抱えている保護者には向き合わないといけない。

ー大学合否の判定基準はどうなるのか。

キャンベル    今までは1点学力主義で、判定基準が明確だったが、今度の判定基準は均等、標準化されたものでは必ずしもない。その中でどう折り合って行くのか、課題の一つ。

    センター試験に筆記があったり、大学に推薦枠が設けられたりする。その生徒が生まれ持った資質をどのように自覚的に開花させてきたのか、学校の内外でどのようなことをしてきたのかが測れるようにして欲しい。

ー大学も大きな変革を迫られていると

キャンベル    異なった側面を持った人たちが集まって大学を作った方が、全体として研究、教、社会との関わりとして強くなる。それができる裁量が大学に与えられることが日本にとって大変いいこと。

    大学がどういう人材を求めているのかということを一つ一つ発信し、生徒たちは自分にあった大学はどこかと見定めるようにならなければいけない。長寿番付のような馬鹿みたいな大学の番付的発想からは早く脱出しなければいけない。非常に内向き。

    生徒は、大学がどういう人材を求めているのか、特性、独自性を自分の中で棚卸しし、きちんと捉える。大学は定員を満たすことに主眼を置くのではなく、どういう特色のある生徒たちを引きたいのか、そうした人たちが集まったときに大学としてどういう力を発揮していくのかが大事だ。

ー日本はいい高校、いい大学に入るのが目標になっている。大学に入って何をするかが明確になっていない。

キャンベル    高校までは考えなくていい。滅私奉公的に自分を抑え、高校2年、3年時は、大学の番付の前の方に行けるよう頑張っている。問題の一つは大学にあり、その先は企業にあると思う。大学はできるだけ学力の高い生徒たちで満員にするようにしている。また、企業はいい大学さえ卒業していればいいとし新卒至上主義もずっと貫いている。大きなハードルだ。

ー生徒も大学の特徴を見極める必要があると。

キャンベル    大学を目指す子どもがいる家庭は、大学をよく見ることが重要。大学に入ったら、そこで何になるかを高校時代、または中学時代から見据えながら自分の学びの形を考えて欲しい。学校の中でやらなければいけないことはたくさんあるが、できることもたくさんある。すべての教科でいい点数を均等に取ることがいいとは限らない。一芸に秀でた人、例えばとことん理系の教科に強い人は、どんどんその才能、資質を伸ばしていけばいい。

ー米国の大学入試では面接が重視されている。日本もそういう傾向になるか。

キャンベル    そうせざるを得なくなると思う。大学の志願者を、人間として今までどうだっったのかを見て、単に判定するだけでなく、大学に入ってどんな働き、関わりが期待できるのかを見る。それを迎え撃つように、子どもたちは自分を充足させていかなければならない。勉強が中心だが、勉強とつながる形で他のことでも自分を作っていくべき。高校生活の中で自分の才能に気づき、単に掘り下げるだけでなく、横に広げることが高校の責任だと思う。そこがアクティブ・ラーニングの要点だ。

ー一つの例として、英検が2級から作文を導入するようになった。

キャンベル    語学力以外に論理力、構成力なども問うようになったのは、教育改革を見据えてのことだろう。

    企画立案能力は実はすごく大事なこと。生徒たちに最終目的を示し、そこに行くまでの道筋を描いてあげても、一つ一つの踊り場、答えは与えない。その中にいろいろな問い掛けがあり得ることを、生徒たちに気づいて欲しい。

ー塾でも、新学習指導要領を前取りした対策に取り組んでいるところがある。

キャンベル    東大が推薦入学を発表した翌年から、大手の塾が推薦入学に向けて高校で何が先生の目に留まり、どうすればいいかを指導するようになった。

ーアクティブ・ラーニングを引き出す教材として、新聞に注目が集まっている。

キャンベル    新聞の活用は有用なこと。ぜひ、新聞をアクティブ・ラーニングの教室の中に生かして欲しい。

May 5, 2017

『月刊経団連』5月号へ寄稿しました。

201705_cover-thumb-140xauto-6911.jpgのサムネイル画像特集は「成長戦略を支えるジャパン・ブランドの発信力強化に向けて」

ジャパン・ブランドの「ジャパン」を掘り下げ発信することへの提言として書かせてもらいました。

  

「伝統を新たな付加価値につなげるために」

私ごとだが、この春、17年間勤めた東京大学を離れ、立川市にある国文学研究資料館という大学共同利用機関の館長に就任した。国文学研究資料館(以下「国文研」)という名前をご存知の方はどれくらいおられるだろうか。東大は誰もが聞いたことがあるけれど、「国文研」と聞いてピンとくる日本人は、その歴史と実績のわりには少ないように思う。筆者にとって新しい船出でもあるので、ここで国文研の活動を簡潔に紹介させていただきたい。

文学遺産を集約し共同利用というかたちで世界に開放

 国文研は、日本全国に点在するこの国の古典籍(=近代より前に筆写、または印刷された書物のこと)をことごとく調査し、書誌データと画像として集積するとともに、そのデータを基に、さまざまな分野で共同研究を推進することをミッションとして1972年に設立された。もともと国立の機関であり、現在は大学共同利用機関として法人化され、事業の範囲も明治時代までを視野に入れ、文学に限らず日本で製作されたあらゆる和装本を対象にアーカイヴしている。活動は国内にとどまらず、アジアや欧米などにも出かけていき、調査・画像撮影を行い、日本の「伝統」を形づくる貴重な文字資料を活用できるものにして提供し続けている。国家百年の計、と呼んでもよい地道な作業を中心に据えて歩を進めてきた。

 国文研のような研究機関は、英国にもフランスにも米国にもありそうで、存在しない。「国の歴史的な言語文化を可視化させるラボ」だと筆者はみている。固有の言語圏から生まれた文学遺産を網羅的に集め、整理し、共同利用というかたちで世界に開放できるシステムを構築すること。そうすることで初めて文学研究を超え、文化に関心を寄せるすべての人々に日本が持つ豊かな歴史を知ってもらうことができるものと信じているのである。

 日本の生活文化と技術発展、何よりも日本列島に暮らす人々がたどってきた精神の長い道のりを知り、他者と共有するために最もふさわしい「伝統」文化資源がここに結集している。伝統を新たな付加価値につなげることを考えると、無数のポテンシャルが書庫とサーバーと世界に張り巡らされている人的ネットワークに潜んでいるといってもよいであろう。

 近代化のなかでの日本語の刷新が過去・伝統からの断絶の壁に

 1000年以上に及ぶ日本の文字遺産にはいくつかの特徴がある。

 一つは、図像と文字が密接に絡んでいること。作品単位で見ればどこからが「文学」で、どこまでが「美術」なのか、という線引きが難しい場合が少なくない。特に近世期(=江戸時代)以降だと、「文学」は「美術」と判別しづらいほど融合的に作られている。「見立て」や「やつし」と呼ばれる日本独自の表現法は、絵と文字のフュージョンから編み出されたもの。本は読むものばかりではなく、和食と同じように、目で見て楽しむものであった。

 もう一つは、日本人が日本語そのものを大きく刷新させたことである。開国と維新から近代へと向かう途中で、それまで何百年もの間に、緩やかに変化していた書き言葉は、古文から言文一致体へ、表記も毛筆から発展した崩し字から活字に組みやすい楷書体へと形を一変させていった。維新から数十年がたってみると、新しい教育を受けて育った人が増え、古いシステムを動かせる(つまり以前通じていた文体や文字の読み書きができる)人間が減り、その結果、今日のように蕎麦屋ののれんの「生蕎麦」ですら読めない日本語話者が圧倒的多数を占めることになった。

 これが何を意味するのか。徹底した刷新の前に記された、ありとあらゆる証言を後世の人々が自分の目と頭で選び取り、理解する能力を失ってしまったのである。自らの伝統を担保する真の「過去」から隔離してしまうという、世界でも希有な状況に日本は置かれているといえる。数え方によって違うが、活字で読める日本の古典籍は、伝来する全体の1割にも満たないといわれている。

fullsizeoutput_142c.jpegのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像 芝居の絵番付から時のかなたに広がる景色を見渡す

 現物でしかアクセスできない史実があるという意味で、面白い例が筆者の手許にある。1807(文化4)年8月19日、江戸は深川の富岡八幡宮祭礼の最中に、隅田川に架かる当時最大の橋梁であった永代橋が崩れ、橋の上にひしめき合っていた400人とも数えられる見物人がいっせいに川に投げ出され、河口へ流れ、命を落とした。都市災害として長く江戸・東京の住民の記憶にとどまった重大な事件である。

 しかし当時、リアルタイムで惨事の様子を伝える新聞もなければ、映像も音源もない。唯一の証言といえるものはお祭りの前に配られる祭礼番付や、後日に認められたわずかな手書きの記録以外になく、市民が災害のことをどうとらえ、理解し、記憶していったかをすくい出すことは容易ではない。

 半世紀たって、1860(万延元)年7月。江戸猿若町にあった市村座で河竹黙阿弥作『八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)』(通称『縮屋新助』)という歌舞伎芝居が初演を迎えた。

fullsizeoutput_142d.jpegのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像

劇の第二幕で、永代橋陥落事件を当て込んだシーンが展開する。

橋の上から川に転落する深川芸者美代吉(岩井粂三郎)を、たまたま小船で通りかかった越後の縮屋新助(市川小団次)が抱き留め、のっぴきならぬ状況の中で美代吉への恋慕を告白する。その前に、博徒と鳶の者が橋の上で喧嘩を繰り広げている。巨大な橋は、人間の慾望を複雑に拡大させるシンボルとして描かれ、現代のわれわれが想像するような事故原因の究明や追悼の念など微塵もない。

配役をふくめ演出の仕掛けも初演時に頒布された1冊の絵番付からとらえることができる。芝居にあわせて刷られた、捨てられて当然の「一流」とはほど遠い文献であり、もちろん活字にはなっていない。しかし災害史という文脈から読むと、実に興味深い。その絵は見てわかるが、文字が崩した形でしかアクセスできないとすれば、そこにある人々の理解や感性は越えたい伝統の「壁」に阻まれてしまう。

 ここで言いたいことは、日本人の災害意識の一端を示す絵番付の画像が、仮に国文研のサーバーからアクセスできたとしても、崩し字が読めない大多数の人間にとっては不透明なものであり、時のかなたに広がる景色を見渡すことを可能としない。これからやらなければならないことは、収集をしながら、掛け替えのない人類のストーリーを刻んだ古典籍を選び取り、読めるテクストにし、その先のところで新しい様式や価値に発展させる工夫を重ねてゆくことだと筆者は思う。社会で広く活躍される皆さまの助言とお力添えを心から切にお願いしたいと考えているところである。

April 27, 2017

『時局』5月号インタビュー(その2)

名古屋発の月刊ビジネス情報誌『時局』5月号にロングインタビューが掲載されました。昨日に引き続き、後半部分をご紹介します。

  

「現代を斬る」ー古典文学に刻まれた真実で現代社会の足元を照らすー

 

虚構の中にある真実を見る

  ―― 国際的なネッワークの構築も進んでいきそうです。

時局写真(その2).jpg キャンベル はい。国際共同研究というものは非常に重要ですから、既に前館長の下で、韓国、中国といった近隣諸国の研究者たちにはたくさん来ていただいていますが、さらに欧米、アフリカ、南米といったいろんな地域の人たちと一緒に、日本文学に限らないクロス研究、超域的、学際的な研究を実現していきたいと思っています。

 あるいは市民講座を含めていろいろな機会を設けて、世界の研学者、世界の文学愛好者と日本の人々をクロスさせながら、いろんな化学反応を起こしていく。私は、材料はもう集まっていると思うんです。あとはどのような問いかけをするかによって、日本文学から、いまや世界中で認められている和食であったり、素晴らしい工業デザインであったり、おもてなしであったりという、いろんな日本文化の根っこにあるものが何かということを感じ取ってもらう。あるいは考えさせる材料が、立川の国文研にあるんです。

 そして、それを扱っているエキスパートの教員と事務方もたくさんそろっているので、アーカイブとしてはもちろん、多様な人たちが集まり、他流試合ができるような場所に一層していきたいですね。

 ―― 具体的にはどのような分野とのクロス研究が可能なのでしょう。

 キャンベル 例えば、江戸時代の料理本研究会があります。レシピ集がたくさんあるんです。レシピと言うとクッキングに関わることですから一般の方もすごく興味を示すと思うんですね。でももう一つ、クッキングというのは命そのものです。特に江戸時代以前は周期的に飢饉がおとずれていましたから、食が安定的にいつでもありつけるときと、供給されないときとでは、食材、保存法、調理法などがどう変わっていったか、人々がどう生き抜いていったかが、実は料理本であったり食の文献の周辺にたくさんの非常に重要な証言があるんですよ。

 現在も日本は、食の自給率が低いと言われていて、国家安全の中で食は重要視されるわけでしょう?

 ―― 確かに、今の時代にそんなことは…と能天気に構えていてはまずいですね。

 キャンベル 震災や水害などの災害が起こった後に、社会が、人々が、村であったり、町であったり、藩であったり、その地域をどのように再生させていったかというプロセスや事例も文学作品の中からたくさんくみ取ることができます。あるいは復興に一応のめどが立つと、人間はそれを忘れようとする生き物です。その時の人々の姿はどうであったかを知ることは、いろんな角度から社会をとらえ直し、私たちの足場を見直すきっかけになり、非常に重要なことです。

 もちろん歴史書にも書かれていますが、ハードの部分はさておき、事が起きた後に、あるいは起きている最中に、人々はどのようにそれに対して適応したのか、社会の蘇生力や、その災害が社会や文化の特徴にどうつながっているかについては、文学作品といわれているものの中にこそ刻まれていると思うんです。文学というのはだいたい虚構ではあるけれど、何もないところから生まれものではありません。あたかもそれが現実であるかのようなリアリティーをもった作り物であるからには、記録からはすくい取れない「真実」がその中にあると思うんです。そしてそれが逆に文学の定義だと言っていいと私は思います。

 

共通の土俵となる古典文学

 

時局写真(その3).jpg ―― 近代の作品ではなく、古典であることにも意味はありますか。

 キャンベル ええ、200年前、300年前、まして1000年前の文学作品というのは生々しくないわけですよ。もう過去のことで、書いた人も関わった人もおらず、今の誰の利権にも関わっていないので、〝共同の土俵〟になりうるのです。誰もが自分の理非や損得を考えずに、一つの土俵に降り立ち、その中で語り合えるものが、文学、とくに古典の文学なんです。

 そういった〝土俵〟の一つとして、この国文研自体をみていただけるんじゃないかなと思っているというか、つくってみたいなと思いますね。

 ―― 古典文学を俎上に載せて、さまざまな分野の人が何にも捉われず、自由に好き勝手な発言をし合えると。

 キャンベル そう、好き勝手。それって大事ですよ。なぜ私が確信をもって言えるのか。私は長くラジオやテレビ、あるいは活字媒体で、文学研究とはかけ離れた方々と対談をしてきています。そして本の話をするのですが、バレリーナ、和紙職人、政治家、スポーツ選手など、いろんな分野で活躍している人が、文学に対して持ち込むいろんな感覚、知恵などが、ものすごく面白い。彼らはわれわれのようにワンポイントで研究している者が気付かないような側面であったり、光や影の当たりといったものを、作品の中に次々と見出していくんです。

 例えば建築家は、その作品の中で空間がどう描かれ、空間としてどうなっているかといったことにとてもこだわるんです。突然空間が見えなくなっているとか、どうしてここはそんなにシャープに空間を描かざるを得なかったのかとか――という読み方をするわけです。

 そしてそうすることで、その時代の人々が、空間や建造物に対して期待しているもの、持っている心と、現在の私たちが描いている、使っている空間に対する見方というものの違いを、彼らは発見します。それは彼らにとってもプラスになるようで、「面白かった」と言われることが、私の個人的な経験でたくさんあるんです。

 ―― まさに化学反応ですね。

 キャンベル 日本文学研究者たちはもっと積極的に社会に手を差し伸べて、日本文学がカルチャーとして、人々に元気や勇気を与える、あるいは逃げ込む場所、ちょっと雨宿りができる場所を与えるというようなことを見せるべきだと感じます。

 

継承されてきた意味を問う

 

 ―― 文学研究そのものの未来についてはどう感じられますか。

 キャンベル 私は東京オリンピック・パラリンピックに向けたいくつかの委員会に関わっているのですが、日本のカルチャーの棚卸しをして、それをどう発信していくかという取り組みが今、至る所でなされています。しかしその中にアニメやマンガはあっても、言葉で書かれた日本文化である「文学」が入っていないことにすごく危機意識を持っています。

 全体的に活字離れが言われていますし、またそれとは別に、わかりやすさがとても重要視されている時代になっています。少しでもわかりにくい、映像のようにすっと文字が頭に入ってこないものに、人々が背を向けるという傾向があると思うんです。

 ―― しかも、文語体の文章やくずし文字は、現代の一般的日本人には難解です。

 キャンベル そうですね。日本語は英語やフランス語、ドイツ語と違って、短い間に言葉ががらりと変わったという歴史的な事実があります。明治時代に、しゃべっている言葉と書き言葉との言文一致が起きて、それ以降、その前に通じていた書き言葉は、一般の人からどんどん遠くなってしまいました。日本人自らが溝を作ってしまったんです。

 私などはその溝があるからこそ面白いといいますか、ほんの200年前の人々の心や日常を表すのに、今と違う言葉を使っていて、それが現代の日本語にもつながっているということに、とても魅力を感じるのですけど、国文学を専門としていない一般の人は、「読めないよ!」と、一瞬の判断で目をそらしてしまうわけです。でも、そこには恋愛の問題であったり、未来に対する不安であったり、希望であったり、切実なこととして語り合われていて、そこに耳を傾けると、自分の住んでいる場所につながっていたり、いろんな〝水脈〟がつながっている。そこを全部遮断するというのは、あまりにももったいない。

fullsizeoutput_1427.jpeg 大量に蓄積している重要な文化資本を、現代の日本語話者――それは、日本人とは限らないですね、私も日本語話者の一人ですから、広く日本語話者にもっとわかるようにしつつ、その中に、まだ十分にくみ取られていない知恵であったり、場合によってはわれわれに対する過去からの忠告であったり、そういったものを、それぞれの専門、それぞれ立場から発見していかなければならないと思うんですね。それをどう促していくかが、私の課題の一つです。

 200年前、300年前、さらには日本の場合1000年前の、人々の軌跡、足跡である書物が、その時点で書かれたものということだけでなく、捨てられずに継承されてきたことの意味を考え、それらを一つ一つ見ていくと、私たちがいま直面していることの選択や判断と、かなり密接につながりうるところがあると思うんですね。

 社会的条件が大きく変わっていることをある程度知ったうえで、日本という同じ空間、共通する自然、風土の中にいた人たちが経験したこと、その経験に基づいて言い伝えられてきたこと、言おうとしていたことに耳を傾けることは、現在、そして未来を見据える一つの重要な方法、材料になるはずです。そして、そのためにできるいろいろなことを、スタッフと一緒に考えて、着実にやっていきたいと思っています。

 ―― ありがとうございました。

   

   

April 26, 2017

『時局』5月号インタビュー(その1)

名古屋発のビジネス情報誌『時局』5月号にロングインタビューが掲載されました。2回に分けてご紹介します。

  

「現代を斬る」ロバート キャンベル インタビュー

 ー古典文学に刻まれた真実で現代社会の足元を照らすー

 大学共同利用機関法人・人間文化研究機構の国文学研究資料館館長にこの4月、ロバート キャンベル氏が就任。在日歴が30年以上におよび、長年日本文学研究に携わってきた同氏は、日本の古典籍は今に生かせる大きな財産だと語る。

 

―― 4月1日付で東京大学大学院教授から国文学研究資料館館長となられましたが、ここは45年の歴史を持つ機関ですね。

時局写真(その1).jpg キャンベル 日本文学に関わる人々が力を合わせて作られたものです。

 近代以前の写本や版本――今の言葉でいう〝紙媒体〟の資料が、日本では天災などが多いにも関わらず、北東アジアの国々、朝鮮半島や中国に比べてもたくさん残ってきました。中国ですと、王朝が変わるごとに文献が破壊されたりしていますが、日本には過去の文献というものをとても大切にし、伝承する文化があると私は感じています。しかし、そういったものが関東大震災や第二次世界大戦の戦災でたくさん失われてしまいました。設立に尽力した人は戦中に青年時代を過ごした世代で、文化財というものがいかに壊れやすく失われやすいかを、たぶん心に深く刻んだのでしょう。

 そして戦後、特に高度成長期に入ると、日本の精神文化がどんどん削がれていく状況の中で、それを形としてとどめている一番のモノである文献、言葉として、表現として、何百年も前の人々が残した証言を、とにかく保存、保管し、次の世代にという切実な問題意識を抱いていたと思います。

 ―― 具体的な事業内容は。

 キャンベル 根幹の事業としてやってきたのは、日本全国津々浦々、そしてそこから全世界に流出した近代以前の古典文学作品原本の書誌学的な調査。つまりデータ収集です。何がどこにあり、その本がモノとしてどのような特質を持ち、版本であれば、それが早い時期の刷りなのか、後の刷りなのか、いつ印刷されたのかがわかる調書を取る。そして写真機で一丁、一丁、全部撮っていき、全編の画像収集を行い、それをマイクロフィルムとして現像。2セット作って、一つを当時は品川区の戸越銀座にあった国文研に保管し、研究者や一般の方々にそれを開放することで活用。もう一つは深い山の中に保管し、劣化しないように管理してきました。そして今は電子画像として撮影し、公開しています。

 ―― 随分徹底した保存体制ですね。

 キャンベル 冷戦時代ということもあったのでしょう。どんなことがあっても、日本の言語文化が遺産として人類に残るようにと、まさに国家百年の計として始まった事業なのです。

 所有者の都合もあったり、さまざまなことが起きる可能性があるので、実物を全部東京に持ってこさせることはできません。東京でやっていることはほんの一部の事で、北海道から沖縄までを5ブロックくらいに分けて、古典文学を専攻している教員や大学院生たちの協力を得てチームを組み、国文研のスタッフが現地に赴いて現地の専門家と一緒にその作業をやっていくわけです。私も九州にいた若い時に調査員をやりました。

 ―― その取り組みは今も?

 キャンベル そうです。これからも私が館長の間、ずっと続けられる予定です。

 

発信だけでなく使える情報に

 

時局写真(国文研).jpg ―― 現在は立川市役所近くにあるこちらの施設内には、参考図書がすべて開架になっている閲覧室や展示室などがありますが、ウェブ上でのサービスも早くから実施されているようですね。

 キャンベル 私たちのウェブサイトはヘビーユーザーがたくさんおられます。日本の東京、立川まで足を運ばないと、施設を使うことはできませんけれど、ウェブサイトを通じてたくさんの画像や情報、あるいは独自に作ったデータベース、ほかの方や組織が作ったデータベースへのリンクもしてあり、世界のどこからでも、いろんな形で使えるんです。

 国文学でも古典籍のジャンルは近代の本に比べればかなり広く、絵本であったり、教育に関わる本、宗教に関わる本といったものも、当時の文学の大きな範疇に入るわけで、すごく広範囲な本を収集しており、国文研、あるいはここのウェブサイトに来れば、それらすべてを探検したり読むことができるようにしているんです。これはここの仕事の一丁目一番地としてやっていることです。

 しかし、今の世の中では公開することは当たり前のことになりつつあると思うんです。これからは公開したものを、受け手側が十分に活用できるのかということも問われます。日本国民、そして世界中で日本文学に興味を持っている方々に、江戸時代の書物をそのまま公開しても、読めないですよね。

 ―― ええ、くずし文字など形として美しいとは思いますが、読めません。

 キャンベル 月の裏側から降ってわいてきたような文字で素敵なものですが、橋渡しをしないといけない。そして、ここが大事なことですが、ここのようにその国全体の、近代以前のすべての書物、あるいは作品を全部収集し、活用していく機関は世界に例がないものです。イギリスやフランス、ドイツあたりにありそうですが、ただアーカイブしていくだけでなく、活用しているのはおそらく日本だけなんです。

fullsizeoutput_1427.jpeg ―― そんな組織のトップとして取り組んでいかれたいことは。

 キャンベル 私がぜひ実現に貢献したいと思っている事業の一つが「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」という大型研究プロジェクトです。いままで集まってきた膨大な書誌データ、画像データに加え、30万点の新たなタイトルについて調査をし、画像データを収集。それらを統合して日本語の歴史典籍データベースを作成しようというもので、10年計画で2年前から開始しています。拠点機関が全国各地のほか海外にもあり、各地域の資料の画像データ化を加速的にやります。

 そうした国文研の仕事のことなど、SNSを使って皆さんに声が届くようにしたいですし、ただ発信するだけでなくて、声を拾える工夫もしたいといろいろ考えています。

 そしてもう一つ、ウェブサイトに一応英語バージョンはあるのですが、あまり生きていないのを改善したいですね。よくあることですけど、決まったページが英語になっているだけで、あまり更新もされていません。もっとビビッドに、実際に今、国文研でやろうとしていることが伝わる形で、多言語化していくことが重要だと思っています。

  

(続きは、明日のブログにて)