August 14, 2013

晴耕、のち牛食

火曜日ということで昨日はスッキリ!! 出演。いつものコースで首都高を走って約30分。車の中は新聞をあさり読み。いちおう当日のラインアップを頭に入れて関連記事を探すが、たいがい関連のない、面白ニューズが目に留まり、やがて日本から遠く離れた南米やら中近東まで飛び出しては、どろどろのローカル事件に浸りだしたところで汐留に到着する。パリ発信Le Mondeの夏休み特集で取り上げていた、地中海沿岸の渚キャンプ(le camping sauvage)で思い思いの小屋を造ってバカンスを過ごしている人たちの表情にほっこりしました。

昨日は夏休みらしくソフトなネタが並びました。トップだけ、一昨日の都内豪雨に取材していて、大竹真アナウンサーが夜に我が家近くの停電地域を歩いておられるからびっくりしました。道一本隔てたところで懐中電灯で缶詰の夕ご飯。こちらは冷房ありで熱々のカレーライス、食後にパソコン三昧で災害の訪れに気づくすべはありません。都市災害の恐さはここに潜んでいるなと実感するVTRでした。

OA終わりでふたたび車に乗って、サントリー美術館で開催中の「生誕250周年 谷文晁」展へ。江戸時代後期の関東画壇を率いて巷でも最大の人気画家だったが、あらゆる画法に挑みオールマイティに活躍した文晁という人間にはこれといった一貫したスタイルが見出せず、言いかえると現代の我々が求めがちな「人間」の癖や臭いなどを画面から感じ取ることが難しいのかもしれません。しかし日本の文人画家がどうやって絵を描いたのか、をこの企画展から知ることができます。粉本学習の過程はもちろん、文晁が日本を隈なく歩きながら山の稜線を写し取ったり、寺院では古宝を模写したりするその姿勢を展示品が映し出しています。また江戸では、大名屋敷から町人居住地にいたるまで彼がいかに多くの人々と交わり、胸中にぼうだいな画像集積庫(展示図録、板倉聖哲氏論文)を作り上げたかも直感でつかめて、なかなかよく考えられた展示でした。

午後は半蔵門にあるJFNスタジオに向かい、「PEOPLE 編集長!お時間です。」を収録。8月のゲストはJAXA名誉教授で宇宙工学者の的川泰宣さん。的川さんには8月27日打ち上げ予定のエプシロン・ロケットについてたっぷりと、最後には子供とその親を相手になさっている宇宙教育の模様を熱っぽく語っていただきました。

夜は毎週スッキリ!! でごいっしょしている香山リカさんと納涼夕食会。18:30、西荻窪にあるイタリアン・ビストロTrattoria 29で集合。あれこれおしゃべりしながらあれこれ前菜とパスタをつまみ、最後にはお店イチ押しの肉料理を頂戴しました。

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茨城産黒毛和牛(左)に、熊本産えこめ牛(右)、それぞれ300gr.、合わせて4人分。どちらも雑味がなく旨い!に違いないけれど、このごろ味が深くさっぱりした赤身が好みなので、わたくしは、軍配をえこめ牛の方に上げました。

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帰ってくると昼間に出された日大教授・田中ゆかりさんからのお便りが着信。昨日のブログを見てくださったとのこと。その上で、次のように書いておられます(田中さん、掲載許可ありがとう!)

「お書きの小説における「脱方言」は、ヒーローは標準語という役割語セオリーのどまんなか、と思いました。

大河の『武田信玄』で、信玄は共通語、足軽頭は「甲州弁」という時代劇における安定装置です。これが、くずれてきているのが近年で、ここのところの日経で連載される時代小説は、ほぼヒーローもヒロインも「方言キャラ」です!

「脱方言」といえば、話はズレますが、先日「役割語」研究の元祖とお話をした際に、

「脱方言」ドラマは『純と愛』、
「ドラマ方言におけるリアルさの追求」は『カーネーション』、
「ニセ方言ドラマ」は『あまちゃん』、
 
朝ドラに限らず、 方言の用いられ方からみたドラマのこの3類型はけっこういけるのではないか、 という話で盛り上がりました!」

じぇじぇ~!気づかずに見ていた朝ドラは(教科書にけっして書かれない)日本語の教科書であったとは!田中さん、もっと教えてください!

August 12, 2013

雨読

近所から一歩も出ることなくジムと読書に一日を費やし、これ以上なき幸せな気分を噛みしめることができました(凄まじい雷雨も帰宅後のことで、セーフ)。こういうと文武両道に聞こえるかもしれないけれどそれは大きな誤解で、ジムではひたすら筋膜リリースと体幹トレーニングという地味なアクティビティに没頭していましたので、「武」とは無関係。池のそばで捕獲の瞬間をじっと待っているゴイサギのような、ああいう不気味な自律運動。

 

ちょっとした文章を書こうと思ったものですから葉室麟さんの『蜩ノ記』を昨日から今日にかけて読み直していました。文化年間(1804-1818)に豊後国(大分県)の山間に幽閉されたある武士とその家族、彼らを取りかこむ農民たちの哀愁と憤りを描いた力編です。葉室さんとは去年、直木賞を受賞されて以来、東京と大分県で2度ほどお目にかかりましたが、ご本人もやはり穏やかな佇まいに何か強靱なスピリットを表情とことばの端々から放出させておられました。

 

いい本はかならず再読すべし、と今回も感じました。推理小説として読めるこの物語に緻密な仕掛けが色々あって、なかには注意深く読んでいかないと気づかないで終わってしまうものもあります。わたくしが見落としたのは、会話と地の文の間に張りめぐらされた文体の段差。

 

村人は一人残らず大分弁でしゃべっているのに対して、主人公・戸田秋谷とその息子郁太郎、それに藩から目付役として送り込まれた若侍の庄三郎をはじめ、すべての武家と僧侶は「です/ます/ござる」で結ばれがちなやや古風で丁重な共通語で語り合っています。武士も百姓も、自らの立ち位置を崩すことなく、ごく自然にツー・トラック会話を互いに繰りだして絆を築き合っていきます。

 

郁太郎は感心したように言った。

「源吉は強いなあ」

「なんでそげなこつを言うんね。強さなら、郁太郎の方がお侍じゃけん強いに決まっちょる」

「いや、源吉は嫌なことがあっても、すぐに笑い飛ばしてしまう。わたしはいつまでもくよくよと考えてしまう」

 

郁太郎少年は、物心がついてからずっとこの村で暮らしているのに、同世代の源吉に対する語り方は「脱方言」的で、ここだけ切り取れば冷たくも感じるかもしれないが、けっしてそうではない。むしろ源吉たちのしたたかな心構えと朗らかさを際立たせる役割を彼の「方言のなさ」が請け負っているようです。

 

ところで一巻読み終わったとたんに、玄関でピンポン。『方言学入門』というソフトカバー本が一冊到着(木部暢子・竹田晃子・田中ゆかり・日高水穂・三井はるみ編著。三省堂)。なかなかよく出来た入門書で、ことばの地域差を地理的空間(第1章)と、ことばそのものの仕組み(第2章)と、コミュニケーション様式(第3章)と、社会変化(第4章)から取り上げ、最後には「『方言』から見える日本の社会」で締めくくっています(第5章)。興味深い調査データと先考研究リストを満載。

 

第5章で面白いのは、「社会現象としての『方言』―「方言コスプレ」という現象」でした。執筆者の田中ゆかりさんが一昨年自ら上梓した『「方言コスプレ」の時代』(岩波書店)をふまえた概説で、昨今広く見られる「ヴァーチャル方言」とそれにくっついて回る「方言ステレオタイプ」から産みだされる人びとの「臨時的キャラ発動行動」としての方言コスプレ、をヴィヴィッドに説いています。アニメや時代小説が好きな面々には、一読も二読も、お奨めです。

 

それにしても郁太郎のあの一見透明そうな「脱方言」を、コスプレ的にはどう説明できるきか、これから少々考えなければなりますまい(秋谷風〔笑〕)

August 11, 2013

夏芝居

新しい歌舞伎座がいちばん気持ちよく感じられるのは夏でしょう。場内は温度にムラがなく寒すぎず、そのうえ、むかしに比べれば前の席との間がたっぷり空いているので、心理的な「涼しさ」が生まれます。幕間も清々しい。1階の喫茶店も3階の食堂も大きな窓ガラスから街の往来が臨めて、いい気分。ビールが旨い。

今日は第2部、「梅雨小袖昔八丈〔つゆこそでむかしはちじょう〕」(髪結新三)と「色彩間苅豆〔いろもようちょっとかりまめ〕」(かさね)の2演目を観劇しました。

「髪結新三」は序幕と二幕目で、江戸日本橋の材木問屋白子屋の一人娘お熊(児太郎)と店の手代忠七(扇雀)が親には内緒で恋仲、駆け落ちするつもりが小悪党の新三(三津五郎)にかどわかされ、深川の長屋に監禁されるという顛末。序幕第一場の店先に現れる新三が忠七の髪をきびきびと撫でつけながら悪計を吹き込むあたり、三津五郎の艶やかでかつ温かいヒールぶりが冴えています。第二場の永代橋前では、新三に罵倒される忠七は初めてお熊を連れて行かれたことに気づき、橋の上から身投げする支度に余念ないけれど、祈る扇雀の指先がなんと愁いにみちて優美なことか。

二幕目は川の向こう、新三の内。上手の路地裏には万年青をはじめ青々とした植木鉢と銅の如雨露が棚に並び、下手の玄関には足を止める魚売りの呼び声、初鰹、その江戸風解体ショー、賑やかで涼しい風景です。お熊を実家に返すべくやってくる家主長兵衛(彌十郎)は、絶妙なお為ごかしが明快で大きな笑いをさそう。

「かさね」は悲惨な恋の始末を澄んだ清元に乗せて目でぐっと引きつける舞踊劇。与右衛門(橋之助)という色悪を絵に描いたようなはぐれた侍に連綿とくっつくかさね(福助)が主人公。滅多斬りにされながらも男の側を離れようとせず、最後には怨霊と化して逃げる彼を花道から引き戻す形相の凄まじさ。時間は真夜中から夜明けまでの一場、後半に後ろの黒幕が切って落とされると白みだす空はかさねの着物と同系色の紫がかったねずみ色。橋の下をゆっくり流れてくる髑髏に鎌が刺さり、おぞましい。「おそろしいはお前の心」と古風にかまえる福助の挙措が美しい。清元は、若き清美太夫が圧巻。

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August 8, 2013

声の波形図

16:55頃。半日かけてやっとアップに成功したインターネット・ラジオ初回放送の「夏は砂時計」。管理ソフトの「更新」ボタンをクリックした瞬間に、携帯から何とも言えず嫌な警戒音が鳴りひびいたのであります。乾いたゴム靴を擦り合わせているような、悲鳴に近いアラーム。画面は「緊急地震速報/奈良県で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)」と表示。誤報と分かれば何ということもないですが、東日本なら2年前の春、あの大揺れが蘇り、そのまま体を強ばらせた人たちが多かったのではないでしょうか。 

10分ほど経過すると誤報だと分かりました。よかったな、本当に。そのあいだ管理ツールから切り放されたネット・ラジオは、サーバーから公式サイトのRADIOページに降り立ってきて、聞けるような状態になっているから大したものです。ワォー。またツールの画面に残っている声の波形図も、何だかいっそやさしそうで、狭い場所に身を寄せ合っているようにもみえ、愛おしく感じられたのでした。

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December 7, 2012

Far Side of the River

Up at 4:00 AM. Into the black car always waiting in front of my house on Saturdays 4:50 sharp for a thirty minute drive east to Roppongi and the TV Asahi studios, where Asanabi (“Morning Navigator” ) is broadcast live from 6:00 to 8:30. My Wabisabinabi (Quiet-Simplicity Guide?)  round-the-town segment was 25 minutes of Shigeru, Mariko and me trekking across Fukagawa in Koto Ward, on the eastern side of Sumida River.

From where somebody living in the middle of Edo (present day Tokyo) stood, Fukagawa was way on the other side of the tracks (less the tracks of course, just miles of canals). The neighborhood grew up around still-splendid Tomioka Hachimangu Shrine, where public sumo contests are said to have begun, and boasted seven illicit brothel districts, which many guys preferred to the more rigid and pricier Yoshiwara pleasure quarters near Asakusa.

Three spots on the way really cheered me up. One was a small red-painted iron bridge  suspended over what once was a canal for transporting logs to the lumberyard area beyond Fukagawa. Constructed in 1878, Hachiman Bashi is in fact the oldest bridge of its kind in Tokyo. The canal was filled-in in the 1960s; today along its route winds a perfectly quiet pedestrian path with tons of greenery covering both sides. 

The other two spots were sanctuaries from the cold river wind. One, the Orihara Shoten, is a stand-up sake bar disguised as a toy shop (!) with dozens of great labels from all over the country served chilled or warm over a small counter in the back of the shop, along with a long list of great homemade side dishes (http://oriharashoten.jp/). The other was a casual diner called Fukagawa Juku, situated right inside the precincts of the Tomioka Shrine. The speciality of the house is fresh clam and leek Fukagawa meshi, a piping hot bowl of miso-steeped rice (http://www.fukagawajuku.com/). Great after walking around the grounds and checking out all the humongous sumo wrestler stone monuments that surround the Shrine. 

In the video I showed Shigeru and Mariko a really beautiful ukiyoe print triptych I’d borrowed from the Ojiya Ukiyoe Preservation Council (Ojiya Egami Hozonkai) in Ojiya City, Niigata Prefecture. Drawn by Yoshu Chikanobu and printed in September, 1888, Big Party in the Susaki Brothel District , Fukagawa depicts a few of the courtesans most in demand shortly after the Susaki quarters were expanded, following the demolishment of the midtown Nezu brothel district in June that year.

October 26, 2012

武蔵終焉の地(でもある熊本)で講演会

崇城大学で学生と一般聴衆のために講演しに、熊本市へ飛び、夕方帰京。文章とか漢詩、絵画など見せながら江戸時代の日本人が自分らの「個性」をどう捉えていたかについて話しました。理系専攻の学生がほとんどでピンとくるのかなと心配していましたが、終わると的を射たいい質問ばかり飛んでくるので、安心しました。終了後、一般聴衆を別室に案内して仕切り直し、30分ほどディスカッションをします。その間に元の会場に残っている学生諸君は感想文を書きますが、書き終えると先生が代表的な数枚をこちらの部屋に持ってきて、朗読してくださるのです。短期間にこんなによく書けるのか、くらいわたくしがしゃべった内容を上手くつかみながら自分の関心をきちんと述べているので、一般聴衆もわたくしも思わず大拍手。書いた本人がいないところで拍手されてもな、と一瞬思いましたが表情を見わたすと聴衆はみんな笑顔で感想文に聞き入っているし、いい流れに感心しました。

崇城大学といえば宇宙航空システム工学科が有名で、日本の大学で唯一空港にキャンパスがある学校です。阿蘇くまもと空港に着陸して駐機場へと向かう途中、左側の窓から白い建物が聳えているのが見えますが、それです。かなりの迫力。

ちなみに乗っていた飛行機は、一年前に導入された787型機。去年から国内・国際線とも何度も乗りましたが、従来の旅客機と決定的に違うのは、1/機内が暖かく乾燥しないこと、2/トイレのドアが中で折れるのではなく一枚まるごと通路に出っ張らないようにスライドする方法で開閉ができ、快適であること、3/機内放送など音質が格段によくなっていること、4/窓のシェードが消えて代わりに電子カーテンになっていること。すなわち乗客が窓の透過光量を5段階に調節できるボタンが窓の下にあって、一番暗い設定だと昔の薬瓶みたく深い青緑色に変わります。太陽がうっすら見えて、不気味です。慣れればどうということはなくなるでしょうけれど、完全に消せない外界が気になり、落ち着きません(落ち着かず写真など撮っている場合か、わたくし……)。

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October 25, 2012

剣豪とピアニスト

昨日は講義の後にキャンパスを切り上げ、乃木坂にあるソニー・ミュージック・スタジオへ向かいました。土曜日にコンサートを聴きに行ったジャズピアニスト秋吉敏子さんとの対談を行うため。対談は、来月放送のNHKワールドBooked for Japanとしてまとめられる予定。去年から毎月撮っている番組ですが、世界で活躍する各界の日本人をゲストに迎え、その人にとってもっとも大切な一冊を選んでもらい、そこを出発点に人生観や世界観などをうかがうのが主旨です。秋吉さんは年齢などまったく関係ないかのごとく力強く、みずみずしく戦後における日米のジャズの歩みと、自分の葛藤と信念をシームレスに織り交ぜながら語ってくださいました。最初と最後に、素晴らしい曲も弾いてくださいました。何よりMCの度肝を抜かせてしまったのは、座右の書が、宮本武蔵の『五輪書』であること。剣豪とピアニストの接点とは、など諸々思い描きながら初めて『五輪書』を最後まで読みました。

ワールドの電波は残念、日本の空を飛んでいません。しかしインターネットでは視聴できます。ぜひご覧ください。

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October 24, 2012

先生、時間ですよ。

大学の話。今学期は水曜日に1限目、1年生向けの演習と、3限目、3,4年生向けの講義と、2コマ分があります。朝9:00に始まり、午後2:30に終了。その間、前後にも学生との面談が入り、会議もあって、結構忙しい。1限目は東大の文系1年生全員が冬学期に履修することになっている方法基礎演習の1つで、ここ数年、わたくしが担当することになっています。1クラスにあまり人数が入らないように制限があって、学生の顔もよく見え、駒場の授業のなかで気に入っている方です。1年生はほんとうに真面目。我先にと手を上げなくても、何かを身につけようという意志を表情なり、ことばの端々で感じさせる人が多い。

「文系」といっても幅が広くこれといった共通点はない、という人もいることは知っています。しかしわたくしは「文系」である以上、文献資料を読解できなければ学問の戸口にも立てない、というふうに思います。単純なことですが法学も美術史も、もちろん歴史や文学研究なども、資料が読めるか読めないかでその人の力量が測られ、最大の試金石となっています。目の前の資料(わたくしの場合はほとんど本ですが)から何がどう読み取れるか、それをどう人に伝えるか、が基礎になるので、とにかく学生にはこれが自前でできるようにトレーニングをさせるのが仕事です。

資料とは千差万別で分野によってずいぶん処理のしかたが異なりますが、対処法というか、アプローチは大きく分けて2つになるのでしょうか。1つは、資料をデータを含む媒体と見なして、いろいろな操作を通じて、求めているデータを抽出します。その場合、データが引き抜かれた後の資料は、基本的に(少なくとも抜いた人にとっては)無用になります。一年草が咲き終わった鉢植えの土のように、しばらく物陰に置かれます(「お疲れ様」、いいながらベランダの室外機の横にそっと置きます、あんな感じで)。

もう1つは、資料そのものを丸ごと研究の対象として考えるアプローチです。その場合どうなるかというと、資料を手にした人間は目標によってその成り立ちであるとか、組まれ方(構成)、指向性(誰に、どのようにして向けられているか)とか、論理的統一性の有無、他の資料との関係性、などなど、いろんな角度からじっくり時間をかけて、とにかく眺めるのです。眺めるだけでは実際何が起きるというわけではありませんが、どこが分かりづらいか、なにが特徴的かを見極めるのに一定の時間をかけなければ無理なようで、ここが「検索」と根本的に違うところです。そこから初めて資料の外側に目を向け、分からないことを調べたり、調べたことをまとめつつ、文章なりプレゼンテーションに仕上げます。この一連の動作を、読解と言います。

今回の演習で使っているのは、大田南畝という江戸の文人が19世紀はじめに編集した一冊の随筆です。今朝発表した2人は、南畝が見て書いたと思われる箇所について、江戸初期の板本(木版の和装本)画像を紹介しながら、冒頭文を丁寧に解説していた。順調。

さて午後の講義では、生まれて初めて(!)英語で日本文学について教えています。が、今夜はもう遅いので、こちらについては次回「時間ですよ。」で述べることにしましょう。

October 23, 2012

航空会館でお奨めの一冊、後に参拝

一昨日秋葉原で行われた「ビブリオバットル首都決戦2012」で優勝したのは上智大学の学生で鷹野宣章さんと言い、その鷹野さんが闘った「チャンプ本」は九鬼周造著『「いき」の構造』でした(http://www.bibliobattle.jp/)。江戸特有の美学に西洋的思弁法をはじめて駆使した名著、1930年発表。秋葉原に九鬼あらわる、聞いただけでゾクッときませんか。おめでとうございます。

その関連で今日、バットルを紹介するあるテレビ番組から依頼があり、お奨めの一冊を短めに紹介するコーナーという形式で思いのたけを語って帰ってきました。新橋の航空会館(なぜ!)で収録するのに10分もかかりませんが、帰りのエレベーターでフロア案内に目をやると、これまた何と9階屋上に「航空神社」と書かれているので、いったん下まで降りきってから再び上昇することにして、お参りしておきました。羽田空港で拝んだことは一度だけあるがあちらは屋内で蛍光灯に照らされてあまりピンとこなかったのに対して、港区のビル街に鎮座する航空神社は空が高く、不思議と神々しい。創設は1931年まで遡るそうです。(http://www.aero.or.jp/jinjya/jinjya.html)。

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October 22, 2012

Canal Safari

Half of yesterday was spent taping one segment of the stroll-around-Tokyo corner for the Saturday morning live TV Asahi show “Asanabi” (in English “Morning Navigator,” unfortunately not dubbed) which I appear on weekly. The corner is named  “Wabisabinabi,” which less the rhyme could be translated: “Navigating the Simple, Tranquil Corners of Old/New Tokyo.” Maybe that’s a little too much wasabi on the side, to make up for the lack of one good word in English to cover the old Japanese sense of  “wabi/sabi,” two words conflated to express a sentiment of cool, unadorned, shadowed-rather-than-florescent-in-your-face-consumerism, which a lot of post-bubble young Japanese people really appreciate these days (and has nothing to do withwasabi. Haha).

Yesterday’s outing took us up and down the old canals east of Sumida River, a sleepy residential/small-scale industrial corner of town largely forgotten until Tokyo Skytree opened in May (http://www.tokyo-skytree.jp/en/). Now the area swarms with young couples and families with kids and retirees in neat caps and strolling outfits.

But no one in boats! The area is laced with canals dug in the early to mid-seventeenth century as Edo (name for Tokyo pre-1868) grew and with it expanded a need for quick, secure transportation of goods and people in and out of the city up to the delta regions north. A lot of the canals survive, coated and walled-in with concrete from the 60’s, but still navigable. The water is clean enough for herons (white herons and ghostly grey herons or goisagi) and gaggles of ducks to gather, with tons of silver pampas grass for them to hide in at water’s edge, and fishing poles everywhere. Men mostly, women here and there would line the often sharp corners of the canals, each with his or her bucket of goby (haze) catch. Our ferryboat captain Takashi Hirayama, of Tokyo Canal Network, mastered the channels, and seems to know everybody working on barges by face if not by name.

The land east of Sumida River is basically zero feet above sea level – much lower than the River itself – so in order to enter the maze of canals your boat has to go through a lock. The main lock from the Sumida side is on Onagi River (a long, perfectly straight canal connecting two rivers). On the way in yesterday, we were the only ones in the lock, which drained out in an instant nearly two and a half meters of water before passing us onto the other side. Very exciting (you’d have to be there, or see the show). And kind of scary to think of what would happen if somehow the entrance gate behind us suddenly slid open with the exit gate shut, in reverse order. Of course that has never occurred. But you could almost feel the River pressing on the gate as we descended lower and lower into the canal.

My companions on this show are Shigeru, the leader and guitarist of a famous band here, and Mariko, an announcer at TV Asahi. More on them and “Wabisabinabi” to come.

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