September 25, 2018

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「ここにいる」を言う意味

困った時に声を上げるか、上げないか。複雑な要素をふくむこともあり、人としてすべき、すべきでないはその時の状況による。当事者でもない者が必ずしも口を挟めるわけではない。

昨年テレビ番組の取材で、私は山梨県にある社会福祉団体を取材した。売れ残って捨てられそうになった食品等を、所得の低い地域の人々に提供するのが事業の中心だ。活動拠点にしている建物を訪ねると当事者は居らず、職員が送り出す食糧の荷造りを黙々とやっているだけだった。

代表者に話を聞くと、送り先の一人ひとりはとても助かっていると言う。だが、団体名が入った車での配達や、個別訪問は困る事情があるらしく、物を送る際に差出人名を印刷した箱は使わないで、宅急便で配達してほしいという要望があるらしい。活動周知も、役所の窓口にチラシを置いてもらう他に術はなく、一対一で助けを必要とする人にはつながりにくいという現実があると言っておられた。

アメリカでは山梨のと同じ名前の団体が、ほぼ同質の活動を展開している。しかし食糧をもらいに、毎週周囲に住む低所得者が続々と集い、交流の空間として盛り上がっている。明るく真剣に、互いの苦境に向き合っている。

「ここにいるよ」、と声を上げる勇気。言うのは簡単だけれど、声を上げることで子供が受けるかもしれないイジメや親戚に迷惑をかけるのではないかというストレスを想像すると、なかなか日本の当事者には求められないと現場では納得した。

ところでこのごろ、わたくしのいっそう身近なところで似たことが起きている。7月、衆議院議員が雑誌でLGBTの人々に対し「生産性がない」から支援するに値しないという旨の文章を寄稿し、ブログで反論をした。そのなかでわたくしも当事者の一人であると告げたことが報道され、メディアで増幅し、元来そのことが主眼ではなかったが性的少数者=「ゲイである」ことを公表することで、多くのことに気づく経験になった。

職場で同性パートナーのいることが言えず、だんだん居づらくなり転職を繰り返す人。長く連れ添った相手と一緒にローンを組みマンションを購入しようとしたが、他人同志ゆえ銀行に断られてしまった人。緊急入院で手術を受けようとしたが、パートナーが法的な家族でないために身元保証人にはなれないと言われて困った人。

以前から知り合った人に加えて、インターネットを通じて「ここにいる」と言えず、また言っても聞き入れてもらえないという人から複数の声を寄せられた。中には切実な問題で、LGBTの人権を守る条例や法整備を待っていられないのもあり、読みながら展望が見えず暗い気持ちに陥った。

貧困同様、日本では性的少数者を公表することに関して「勇気を出して」、とはとても言えない側面がある。言わなくてもいい社会に早くなればいいね、という人もいるが、その前にまず、現在「いる」を言うことの意味に、一人ひとりが思いを寄せることが大事ではないかなと、この頃考えるようになった。
北國新聞 平成30年9月21日(金)夕刊連載「泣き笑い日本のツボ」より