August 12, 2018

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「ここにいるよ」と言えない社会

衆院議員が性的指向や性自認のことを「趣味みたいなもの」と言うのを聞いて笑ってしまった。習い事のように何かのきっかけで始めたり、途中でやめたりできるもののように聞こえたから。当事者からすると、むしろ生を貫く芯みたいなものだと捉える人が多いに違いありません。言語にたとえるとどうでしょう。母語と同じように特段意識はしなくても、他者との交流の中で自然と芽生え、育ち、人間としてのポテンシャルを深めてくれる資質の一つであると私自身は見ています。言葉と違うのは、外国語のように学習してまるで違う文化に身を投じることはできない、という点でしょうか。

同性愛者、両性愛者、トランスジェンダーの人々をひっくるめて「生産性がない」ので「支援」に値しないという別の議員が発した言葉も、お粗末すぎて、反論する気持ちも起きません。

私は、日本社会に生きるのに、支援を必要とする意識を持って来ませんでした。でも最初から日本で日本人として生まれ、地域社会で生きようとする若者であったなら、どうだったのでしょうか。

「男(女)の子らしくないぞ」と教室でいじめられ、社会に出れば愛する人の性が違うからといって就職に失敗し、いっしょに部屋を借りたり、ローンを組んで家を建てようものなら門前払いを食らってしまう人は、この国にごまんといます。

その先、倒れても杖となるべきパートナーを病室に呼べず、彼(彼女)の健康保険に入ることが叶わず、老いては介護管理に関わらせることすらできません。先立たれれば相続はおろか、血縁者の反対にあえば葬儀にも出させてもらえません。かわいいそうにと感じる人は多いかもしれませんが、遠い話ではなく、すべて私が日本で出会い見聞きした人の現実です。

LGBTの青年に自傷行為も自殺も発生率が高いのは、「自分たちの親が理解してくれない」ためで、「そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会」だと主張するのはあまりにも浅はかではないでしょうか(杉田水脈「『LGBT』支援の度がすぎる」〔『新潮45』二〇一八年八月号〕)。法の整備も行政の働きかけも不要で、家族で説得(納得)しさえすれば済む話だという主張は以前からあるにはあるが、エビデンスに目を通せば誰もが破綻していることに気づくはずです。

私自身、20年近く同性である一人のパートナーと日々を共にして来た経験から言うと、この国で、性指向のために身に危険を感じたことは一度もありません。数年前、重い病気で入院した時も、窓口で状況を説明すると事務員から看護師、主治医にいたるまで淡々と治療方法や予後のことをパートナーにも伝え、終始、自然体で接してくれました。それは今でも、感謝にたえないことです。

しかし同時に、国レベルでのLGBT差別解消法もパートナーシップ法も、ましてや同性婚もまかりならぬ日本では誰もがそうなるのか、というと、ふたたび「もしも」の点呼が始まります。もしも病院が違い、日本人同士であったり、患者に若干の知名度がなかった場合、どうなったのだろうかと考えずにはいられません。もしも私が先に逝ったら、残された伴侶に不自由を掛けずにおけるのでしょうか。

杉田議員が「支援」と呼ぶものが何か、記事が曖昧で知りようはありませんが、税金の投入ないし減免であるなら、アメリカやカナダ・欧州などの例で分かるように十分に回収できます。同性婚を認めるからといって従来の家族の形に悪影響を及ぼしたり、社会を弱体化させたり、産まれるべき子供の数まで減らす等というデータを見たことはありません。

むしろゲイやトランスという人間の核心に関わる大切な側面を覆わせ続けることで、個々が社会との間に持つべき接点を希薄にさせ、文化にとっても、経済にとっても、未来に向かう大きな活力を削がせてしまうのはあまりにももったいないことではないでしょうか。

積極的に排除はしないが「触れてほしくない」が日本の常識で「美風」であるなら、改めるべき時期に来ていると私は信じます。アンケートにLGBTが「周囲にいない」と答える日本人が多いのは、存在しない、ということではなく、安心して「いるよ」と言えない社会の仕組みに原因があります。ふつうに、「ここにいる」ことが言える社会になってほしいです。

2018年8月12日             ロバート キャンベル