October 27, 2017

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零れものをひとつひとつ 丁寧に拾っていけば

ライフスタイルマガジン「ミッドタウンスタイル」 2017秋号に掲載されているエッセイ『零れもの三昧』story 1をご紹介します。

 刃こぼれという言葉が好きである。包丁が硬いものに当たって欠け落ちてしまうこと。むかし、近所の小料理屋で大将が若い弟子に『こぼれちまったよ」、と力無げに呟くのを耳にしたことがある。わたくしも、ときどき魚をさばく時にやらかしてしまう。角度を間違え、ガツンと太い骨に当たる。音だけ聞くと、冷たく鍛えられた刀のエッジが一瞬に液体に変わり、勢いよく四方に飛び散るイメージを抱く。ぽたぽたこぼれる、というのではなく大胆にバシャッと飛散する。
 刃こぼれの「こぼれ」は漢字で書くと「毀れ」になる。その親戚に、もう一個の「零れ」というのがあって、これはゆるい液体が電車の網棚から頭上にぽたぽた落ちてくる、というような感覚だろうか。容器の内側に収まりきらずに外にあふれてしまう。いい例は涙である。「源氏物語」の昔でも「忍ぶれど涙こぼれぬれば……」というふうに、内部に溜めておいたものが抑えきれずにぽろりと頬を伝って袖を濡らす、というのが古い文学の定番「零れもの」である(「帚木」)。単なるドリップではない。英語のドリップコーヒーが「零れコーヒー」にならないのも、日本語でいうところの「零れ」は容器の存在が前提になっていて、その容器がいっぱいにならないと「余り」が滴ってこないという条件が暗黙のうちにできているからだ。
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 刃こぼれの次に好きな日本語は「零れ幸い」。辞書を引くと「その身に得る道理や資格がないのに、何かの余徳で受けることのできた利得」。「資格がないのに」とは厳しいお言葉。まさか「棚からぼた餅」が一個ドスンと頭上に落ちてくるわけでもあるまいし、むしろ予期せぬちょっとした喜びを得ることをいうのである。
 そう考えるといろんな零れものがある。ひとつひとつを丁寧に拾っていけば、日本文化の新しい風にひょっとして触れられるのかもしれない。今思い出したのは「零れ梅」という言い回し。ひらひらと散り落ちる梅の花。そこから、梅を図案化した着物の模様や、さらに白い粒に固めた味醂の搾り粕でつくったお菓子の名前。まさに「零れ梅」にふさわしい。一方、風に靡く性格からもうひとつ、幕末の、お客と逢瀬を重ねる芸妓のことを「零れ梅」とあだ名をつけたのもある。奥が深い。
 他の言語と比べ、日本語にはたくさんの語彙が取り揃っているとよく言われる。たしかに英語より多い気はする。また逆に、ひとつの言葉に途轍もなく遠く離れた場所で使われるそれぞれの意味のバラエティが豊富で、私はいつも日本語で話しながら、小旅行にでも出かけている気分になる。
 せっかくの零れものを上手く受け取りたい。上からこぼれている間に見逃さずにキャッチすることが肝心である。そもそも「容器」がいっぱいかどうかの見極めも、難しいけれど、大事なことだろう。ぽたぽたと頭上に落ちてくるものが素晴らしく豊かな場合もあるから、それを誰にどうやってお裾分けすればよいかなどについて、もう少し考えてみようかな、と思う。

「零れもの三昧」は『東京ミッドタウンスタイル』に掲載されている連載エッセイです。

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