2弾目となる『騎士団長殺し』の書評です。
7年ぶりの本格長編とあって、村上春樹の小説『騎士団長殺し』は発売時からメディアの話題をさらい、すでに130万部を発行して、先週から各紙の読書欄を賑わせている(筆者も3月8日付『朝日新聞』朝刊に書評を寄せた)。上下巻計1千ページ以上もある分厚い作品なだけに、読むのに相当な覚悟は要るけれど、東京のハルキストたちは先週末あたりから街の喫茶店で新作に首ったけであった。
私は仕事の合間に、書斎で丸3日間かけてやっと読み終えた。おそらくこの文章が読まれている間にも、アメリカや中国、韓国などで多くの翻訳者たちが手分けをして、この不思議な物語を理解し、自分たちの言語に置き換える作業に着手していることだろう。
読むのにかかるこちらの時間も長いけれど、物語の中に展開する時間はもっと長い。以下、あらすじを多少詳しく説明する(未読の方はご注意を)。
主人公「私」の職業は肖像画家である。36歳の春、6年東京で共に暮らしてきた妻から離婚を切り出され、あてもなく車を走らせる。落ち着いた先は、友人の父親で、著名な日本画家が持つ小田原市郊外の山中にあるアトリエ兼自宅。留守番みたいな格好で住まわせてもらう。ここで9カ月間、静寂過ぎるほどの自然の懐に抱かれた暮らしが始まる。
単調な画家の日々に不気味な風が吹くのは夏から初秋のころ。たとえば、夜中の決まった時間に敷地内の古い祠の近くから、鈴の音が微かに聞こえてくる。以前に出会い、肖像画の制作を依頼してくる白髪の男と音源を探るが、そこには地下に掘られた空っぽの石室があるばかり。
そして「私」は、屋根裏で「騎士団長殺し」と題された一枚の日本画を見つける。それは飛鳥時代の衣服を着込んだ男女の絵で、「息を呑むばかりに暴力的な絵だった」。
その間、時代は日中戦争、ナチスドイツによる併合前後のオーストリア・ウイーン、「私」が15歳のときに喪った妹との平穏な日々と、自在に往き来する。「私」は、そのような混乱の中でも何枚もの絵を描き続ける。そして人間の姿を絵に描くことの意味を、自分に問う。
優れた肖像画は、写真のように客体を正確に再現するのではなく、対象のエッセンスを取り込み、解体して、キャンバスの上に組み直す。単なる外見では窺い知れない、謎をも含んだ「真実」を描き切ったものだ。「私」は、そう覚る。
何が真実で、何が嘘かが見分けづらくなった今の世界にあって、エッセンスを取り込み、謎が残ることも受け入れ、しかし同時に、真実を淡々と語り合う努力を止めないことこそが、求められているのではないか。長い小説を読み終えて、私にはそんな読後感が残った。ファンタジーな長編小説に、現実に向けたシャープな問いかけが、いくつも埋もれているように感じた次第。