春になったら友達を呼ぼうね、と考えるのは、冬も終わりに近い証拠であり、あと少し待てば花見もできる好季節だ。
おもてなしの基本中の基本は、「お客さまを待つ」ことである。冷たい飲み物を準備したり、ソファのクッションをパンパンと叩いて形を整えたりしながら、鄭重に用意を重ね、その時刻に合わせて玄関の内側で来客を「待ち受ける」ことから歓待は始まる。
考えてみれば「待」という漢字は不思議なものだ。「ある人がやってくるのを期待し、その場にとどまって、じっとする」という意味と、「来客をもてなす、応対する」という意味を兼ねそなえている。言いかえれば、待ち人が到来する「前」と「後」が一つの流れにまとめられていて、「待っている」間と「もてなしている」時間が、縫い目なく一本につながっていることに感心させられる。むかし日本では「待賈」(=よい価で買ってくれる人の到来を待つ)といえば、商人の当たり前の姿であった。
人間万事「待つ」ことが大事なのはよく分かるが、人以外の生き物で、はたして「待つ」ことを知っているものはあるだろうか。
西部劇に出てくる馬は、昼間からサルーンという飲み屋の外につながれ、喉を枯らしながらひたすら主人の出てくるのを待ちわびている。犬は待つことの天才。50メートル先から帰宅する主人の鍵の音まで聞き分けられるというから頭が下がる。籠の小鳥だって、餌を運ぶ人には美声を上げ、歓迎の唄で一曲もてなしてくれるではないか。
人間の近くにいて人間と「待つ」ことを共有しないのは、ひとり猫である。昨年の暮れから飼っている仔猫の夕吉も、ご多分に漏れず、帰ってくる主人には冷淡だ。上がり框に姿を現すも、靴を脱いでいる間にするりとどこかへ消えてしまう。主人(と思っていないだろうけれど)の到来を待っている風情でもない。
猫のそういうところを素晴らしいと誉め称える作家は多い。たとえば豊島与志雄には『猫性語録』(昭和13年刊)という随筆集があって、同名の一編では猫の媚びない佇まいに、肉食獣がもつ本来の野性を見て取れると言っている。
また、「明日」という短文では、ある男から聞いた話として、他人から近々訪ねたいという趣旨の手紙が来ると、うんざりするとも言っている。今日アポ無しで来れば怒りはしないが、自分も見通しがつかない「明日」と約束させられた日には、じっと待っていなければならない。地獄だ。「明日になると、もういけない。明日の負担を負はせられることは、今日の僕にとつては、堪へ難いことになる」と。
作者の知人は、来客を拒絶するわけでもない。来るなら来い、その分おもてなしはしないぞ、という立場である。近ごろ、こういう御仁の我がままが通らなくなっていて、ちょっぴり寂しい。ただ、夕吉は今夜も「待っていた」と言ってくれそうにはない。