August 30, 2013

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「短篇地獄」 燃える山々(下)

『中央公論』に連載中の「短篇地獄」から前回の続き(2013年8月号)。

初期清張の「火の記憶」(昭和28年、『松本清張傑作短篇コレクション』〔文春文庫〕下)、あまりポピュラーな短篇ではないですがぐいぐいと読ませます。

なぜ今清張か、ということを先に述べると今年の3月、北九州市主催「鷗外サミットin北九州」というイベントに呼ばれ、鷗外がご専門の山崎一穎さんと作家の平野啓一郎さんといっしょに鷗外についてあれこれ意見や課題などを語り交わしました。大変刺激的で得るものが多かったですが、準備の段階で(現)北九州市が出身の清張が若いときに書いた「或る『小倉日記』伝」を読み返してみました。結局講演で触れることはなかったのになぜか東京に帰ってみると鷗外ではなく、清張のことばかりが気にかかり、締め切りの太い束をよそに初期作品を全部読むという挙に出ました。

なかでも「菊枕」と「火の記憶」は快作で甲乙つけたい。しかし玄侑さんの「光の山」を読んだばかりでしたし、1ヶ月も経たないうちに長崎の軍艦島に渡るという偶然が働き(参照、8月16日ポスト)、日本の近代、エネルギー政策の行き詰まりが「燃える山」という神秘的で不気味なイメージのまわりに結集していったように感じた次第です。

アメリカ文学でいうと、Dean Koontzの‘Strange Highways’という中篇小説がいい(Strange Highway, Vision, 1997)。ペンシルベニア州にある、古くなった炭坑の上に広がる小さな街。張り巡らされた無数の地下トンネルで自然発火が起こり、その火事で住人たちは10数年間も悩み続け、ついにある日、いたたまれない事故が起きてしまうという内容です。埋蔵エネルギー源のずさんな後始末、人々の希望と喪失感、街の崩壊。日本文学の「燃える山々」ともつながりそうな話です。


 燃えさかる山を短篇小説のラストに描き遠くから眺めさせる、なんてさすがに火山列島日本ならではの感性である。先月紹介した玄侑宗久『光の山』(新潮社)の最後に「光の山」という一篇があって、三〇年先の福島県で、爺さんが除染で出た樹木や廃棄物などを積み上げて作った山が煌々と燃える暗黒の世界がある。クライマックスまで一気に読めて、底抜けに明るく、やがて悲しい。
 まったく偶然だろうけれど、松本清張の初期短編でも山が燃えている。芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」より半年前に「記憶」という題で発表され、また書き直され、翌一九五三年に「火の記憶」として再発表された。
 ボタという、放射性物質と同じエネルギー源である石炭から出る廃棄物が積もり積もって、山を作り、そのボタ山が自然発火すると、夜空に浮かんで美しく燃えるのだ。
 主人公高村泰雄は、三、四歳のかすかな記憶をたよりに、それまでずっと抱えていた己の出自をめぐる謎に挑む。幼い記憶は、「硝子の細かな破片のようにちょいちょい連絡もなく淡く残っている」、ちょうど砕け散った石炭の断片のように暗く硬質な光を放つ。
 泰雄が妻頼子と出会う少し前に母の十七回忌法要を行おうとして、遺品の中から見覚えのない男の死亡通知を発見する。母が古い写真と一緒に取ってあった一枚だ。物心がつかないうちに父は失踪して家に居らず、母の周りに男の影だけがちらついていた。泰雄を苛み続けてきたこの影は、やがて彼を旅へと出立させる。
 泰雄は筑豊地方まで行って、男の最期を突き止める。夜、帰りの車窓からぼんやり外を見ていると、山の稜線に沿うように真っ赤な焰が点々と燃えている。一瞬にして記憶の焰と、この実景とが一致し、むかし、母が自分を連れて逢瀬を重ねていた場所がここだと合点する。
 父も母も、浮かばれないお話だと思いきや、結末には衝撃的な展開が待っている。ハッピーエンド、とまではいかないが、涼しい風が吹いてくる。