近所から一歩も出ることなくジムと読書に一日を費やし、これ以上なき幸せな気分を噛みしめることができました(凄まじい雷雨も帰宅後のことで、セーフ)。こういうと文武両道に聞こえるかもしれないけれどそれは大きな誤解で、ジムではひたすら筋膜リリースと体幹トレーニングという地味なアクティビティに没頭していましたので、「武」とは無関係。池のそばで捕獲の瞬間をじっと待っているゴイサギのような、ああいう不気味な自律運動。
ちょっとした文章を書こうと思ったものですから葉室麟さんの『蜩ノ記』を昨日から今日にかけて読み直していました。文化年間(1804-1818)に豊後国(大分県)の山間に幽閉されたある武士とその家族、彼らを取りかこむ農民たちの哀愁と憤りを描いた力編です。葉室さんとは去年、直木賞を受賞されて以来、東京と大分県で2度ほどお目にかかりましたが、ご本人もやはり穏やかな佇まいに何か強靱なスピリットを表情とことばの端々から放出させておられました。
いい本はかならず再読すべし、と今回も感じました。推理小説として読めるこの物語に緻密な仕掛けが色々あって、なかには注意深く読んでいかないと気づかないで終わってしまうものもあります。わたくしが見落としたのは、会話と地の文の間に張りめぐらされた文体の段差。
村人は一人残らず大分弁でしゃべっているのに対して、主人公・戸田秋谷とその息子郁太郎、それに藩から目付役として送り込まれた若侍の庄三郎をはじめ、すべての武家と僧侶は「です/ます/ござる」で結ばれがちなやや古風で丁重な共通語で語り合っています。武士も百姓も、自らの立ち位置を崩すことなく、ごく自然にツー・トラック会話を互いに繰りだして絆を築き合っていきます。
郁太郎は感心したように言った。
「源吉は強いなあ」
「なんでそげなこつを言うんね。強さなら、郁太郎の方がお侍じゃけん強いに決まっちょる」
「いや、源吉は嫌なことがあっても、すぐに笑い飛ばしてしまう。わたしはいつまでもくよくよと考えてしまう」
郁太郎少年は、物心がついてからずっとこの村で暮らしているのに、同世代の源吉に対する語り方は「脱方言」的で、ここだけ切り取れば冷たくも感じるかもしれないが、けっしてそうではない。むしろ源吉たちのしたたかな心構えと朗らかさを際立たせる役割を彼の「方言のなさ」が請け負っているようです。
ところで一巻読み終わったとたんに、玄関でピンポン。『方言学入門』というソフトカバー本が一冊到着(木部暢子・竹田晃子・田中ゆかり・日高水穂・三井はるみ編著。三省堂)。なかなかよく出来た入門書で、ことばの地域差を地理的空間(第1章)と、ことばそのものの仕組み(第2章)と、コミュニケーション様式(第3章)と、社会変化(第4章)から取り上げ、最後には「『方言』から見える日本の社会」で締めくくっています(第5章)。興味深い調査データと先考研究リストを満載。
第5章で面白いのは、「社会現象としての『方言』―「方言コスプレ」という現象」でした。執筆者の田中ゆかりさんが一昨年自ら上梓した『「方言コスプレ」の時代』(岩波書店)をふまえた概説で、昨今広く見られる「ヴァーチャル方言」とそれにくっついて回る「方言ステレオタイプ」から産みだされる人びとの「臨時的キャラ発動行動」としての方言コスプレ、をヴィヴィッドに説いています。アニメや時代小説が好きな面々には、一読も二読も、お奨めです。
それにしても郁太郎のあの一見透明そうな「脱方言」を、コスプレ的にはどう説明できるきか、これから少々考えなければなりますまい(秋谷風〔笑〕)