大学の話。今学期は水曜日に1限目、1年生向けの演習と、3限目、3,4年生向けの講義と、2コマ分があります。朝9:00に始まり、午後2:30に終了。その間、前後にも学生との面談が入り、会議もあって、結構忙しい。1限目は東大の文系1年生全員が冬学期に履修することになっている方法基礎演習の1つで、ここ数年、わたくしが担当することになっています。1クラスにあまり人数が入らないように制限があって、学生の顔もよく見え、駒場の授業のなかで気に入っている方です。1年生はほんとうに真面目。我先にと手を上げなくても、何かを身につけようという意志を表情なり、ことばの端々で感じさせる人が多い。
「文系」といっても幅が広くこれといった共通点はない、という人もいることは知っています。しかしわたくしは「文系」である以上、文献資料を読解できなければ学問の戸口にも立てない、というふうに思います。単純なことですが法学も美術史も、もちろん歴史や文学研究なども、資料が読めるか読めないかでその人の力量が測られ、最大の試金石となっています。目の前の資料(わたくしの場合はほとんど本ですが)から何がどう読み取れるか、それをどう人に伝えるか、が基礎になるので、とにかく学生にはこれが自前でできるようにトレーニングをさせるのが仕事です。
資料とは千差万別で分野によってずいぶん処理のしかたが異なりますが、対処法というか、アプローチは大きく分けて2つになるのでしょうか。1つは、資料をデータを含む媒体と見なして、いろいろな操作を通じて、求めているデータを抽出します。その場合、データが引き抜かれた後の資料は、基本的に(少なくとも抜いた人にとっては)無用になります。一年草が咲き終わった鉢植えの土のように、しばらく物陰に置かれます(「お疲れ様」、いいながらベランダの室外機の横にそっと置きます、あんな感じで)。
もう1つは、資料そのものを丸ごと研究の対象として考えるアプローチです。その場合どうなるかというと、資料を手にした人間は目標によってその成り立ちであるとか、組まれ方(構成)、指向性(誰に、どのようにして向けられているか)とか、論理的統一性の有無、他の資料との関係性、などなど、いろんな角度からじっくり時間をかけて、とにかく眺めるのです。眺めるだけでは実際何が起きるというわけではありませんが、どこが分かりづらいか、なにが特徴的かを見極めるのに一定の時間をかけなければ無理なようで、ここが「検索」と根本的に違うところです。そこから初めて資料の外側に目を向け、分からないことを調べたり、調べたことをまとめつつ、文章なりプレゼンテーションに仕上げます。この一連の動作を、読解と言います。
今回の演習で使っているのは、大田南畝という江戸の文人が19世紀はじめに編集した一冊の随筆です。今朝発表した2人は、南畝が見て書いたと思われる箇所について、江戸初期の板本(木版の和装本)画像を紹介しながら、冒頭文を丁寧に解説していた。順調。
さて午後の講義では、生まれて初めて(!)英語で日本文学について教えています。が、今夜はもう遅いので、こちらについては次回「時間ですよ。」で述べることにしましょう。