神保町 コーヒーと和装本
薄い銀紙を注意深く剥がしていくと、ラム酒に浸った柔らかく口中に甘い汁を放つきつね色の「サヴァラン」が1個待っている。苦いホットコーヒーと一緒につまみながら、道の向こうで買ってきたばかりの和装本を紙袋から取り出し、片手で読む。今はなき神保町の名店「柏水堂」の奥の席。その日の釣果を1丁ずつめくり、読むというより眺めることを何よりの楽しみにしていた。たとえば1820年代に出版された「訳準笑話(やくじゅんしょうわ)」という1冊を買った日は、読みながら、著者が思いついたばかげているけれど鋭い諷刺のひとつひとつに感心したものである。コーヒーと洋菓子と和装本は、実に相性がいい。
「道の向こう」と書いたのは、柏水堂など古い飲食店はみんな靖国通りを挟んで古書店とは反対の北側にあるからだ。南向きでは本が日焼けして傷む、というわけで古書店は昔から通りの南側に北向きに並んでいる。戦前からあった「柏水堂」や今もあるビアホール「ランチョン」が醸し出す知的で華やかな空間に対し、くすんだ色の値札がひしめく通りの向こう側は静かな世界、まさに僕らにとって戦場であり、楽園である。
古書店街の真ん中に「一誠堂」という堂々たる老舗がある。1990年代後半、小説家中村真一郎氏旧蔵の漢詩文集コレクションを調査するため、ここの収蔵庫に日参したことがある。作業が一段落すると、店の売り場で和装本を1、2冊買い込み、太陽が降り注ぐ北側へと通りを渡っていく。日差しの強い夏日であったことを記憶している。
(平成30年2月13日付、東京新聞朝刊より)