原宿 東郷神社の夜
中野三敏先生の父は、敏雄さんといい僕はお祖父様と呼んでいた。戦時中海軍参与官を務めた方で、戦後旧海軍関係者らが発足させた「水交会」に関わり、原宿にある東郷神社の宮司たちとも親しかった。福岡の先生のお宅を訪ねると、お祖父様はいつも2階から下りてきて、お茶を飲みながら僕らの話に耳を傾けてくれた。深みのある立派な声で楽しそうに笑っていた姿が目に残っている。
中野先生の下で専任講師に就くと、大学から給料が入るようになった。僕は毎月、そのお金で東京に行き、国会図書館をはじめ古典籍(明治以前の日本の書物)の宝庫と呼ばれる場所を歩き回っては、帰りに神保町の古書店をのぞいていた。それを知ったお祖父様は、東郷神社境内に建つ古い宿泊施設を紹介してくれた。若い神職が地方から上京した際に泊まれる小さな2階建ての施設で、看板があるわけでもなく、都会の森にひっそりとたたずむ究極のプライベート空間であった。
お祖父様の紹介で、お酒1本を携え社務所にうかがうと「いつでも泊まりにいらっしゃい」と、寛大な言葉が返ってきた。根城は2階の六畳一間。押し入れにきれいなシーツと布団がありトイレと風呂は共同。1泊1500円也。地方住まいの大学専任講師にとって福音、いや天の恵みである。それから10年ほどの間、数え切れないぐらいお世話になった。上京する度、夜の原宿を抜けて神社の木立に入り、ぐっすりと眠ることができた。
(平成30年2月9日付 東京新聞朝刊より)