May 5, 2017

←BLOGトップ

『月刊経団連』5月号へ寄稿しました。

201705_cover-thumb-140xauto-6911.jpgのサムネイル画像特集は「成長戦略を支えるジャパン・ブランドの発信力強化に向けて」

ジャパン・ブランドの「ジャパン」を掘り下げ発信することへの提言として書かせてもらいました。

  

「伝統を新たな付加価値につなげるために」

私ごとだが、この春、17年間勤めた東京大学を離れ、立川市にある国文学研究資料館という大学共同利用機関の館長に就任した。国文学研究資料館(以下「国文研」)という名前をご存知の方はどれくらいおられるだろうか。東大は誰もが聞いたことがあるけれど、「国文研」と聞いてピンとくる日本人は、その歴史と実績のわりには少ないように思う。筆者にとって新しい船出でもあるので、ここで国文研の活動を簡潔に紹介させていただきたい。

文学遺産を集約し共同利用というかたちで世界に開放

 国文研は、日本全国に点在するこの国の古典籍(=近代より前に筆写、または印刷された書物のこと)をことごとく調査し、書誌データと画像として集積するとともに、そのデータを基に、さまざまな分野で共同研究を推進することをミッションとして1972年に設立された。もともと国立の機関であり、現在は大学共同利用機関として法人化され、事業の範囲も明治時代までを視野に入れ、文学に限らず日本で製作されたあらゆる和装本を対象にアーカイヴしている。活動は国内にとどまらず、アジアや欧米などにも出かけていき、調査・画像撮影を行い、日本の「伝統」を形づくる貴重な文字資料を活用できるものにして提供し続けている。国家百年の計、と呼んでもよい地道な作業を中心に据えて歩を進めてきた。

 国文研のような研究機関は、英国にもフランスにも米国にもありそうで、存在しない。「国の歴史的な言語文化を可視化させるラボ」だと筆者はみている。固有の言語圏から生まれた文学遺産を網羅的に集め、整理し、共同利用というかたちで世界に開放できるシステムを構築すること。そうすることで初めて文学研究を超え、文化に関心を寄せるすべての人々に日本が持つ豊かな歴史を知ってもらうことができるものと信じているのである。

 日本の生活文化と技術発展、何よりも日本列島に暮らす人々がたどってきた精神の長い道のりを知り、他者と共有するために最もふさわしい「伝統」文化資源がここに結集している。伝統を新たな付加価値につなげることを考えると、無数のポテンシャルが書庫とサーバーと世界に張り巡らされている人的ネットワークに潜んでいるといってもよいであろう。

 近代化のなかでの日本語の刷新が過去・伝統からの断絶の壁に

 1000年以上に及ぶ日本の文字遺産にはいくつかの特徴がある。

 一つは、図像と文字が密接に絡んでいること。作品単位で見ればどこからが「文学」で、どこまでが「美術」なのか、という線引きが難しい場合が少なくない。特に近世期(=江戸時代)以降だと、「文学」は「美術」と判別しづらいほど融合的に作られている。「見立て」や「やつし」と呼ばれる日本独自の表現法は、絵と文字のフュージョンから編み出されたもの。本は読むものばかりではなく、和食と同じように、目で見て楽しむものであった。

 もう一つは、日本人が日本語そのものを大きく刷新させたことである。開国と維新から近代へと向かう途中で、それまで何百年もの間に、緩やかに変化していた書き言葉は、古文から言文一致体へ、表記も毛筆から発展した崩し字から活字に組みやすい楷書体へと形を一変させていった。維新から数十年がたってみると、新しい教育を受けて育った人が増え、古いシステムを動かせる(つまり以前通じていた文体や文字の読み書きができる)人間が減り、その結果、今日のように蕎麦屋ののれんの「生蕎麦」ですら読めない日本語話者が圧倒的多数を占めることになった。

 これが何を意味するのか。徹底した刷新の前に記された、ありとあらゆる証言を後世の人々が自分の目と頭で選び取り、理解する能力を失ってしまったのである。自らの伝統を担保する真の「過去」から隔離してしまうという、世界でも希有な状況に日本は置かれているといえる。数え方によって違うが、活字で読める日本の古典籍は、伝来する全体の1割にも満たないといわれている。

fullsizeoutput_142c.jpegのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像 芝居の絵番付から時のかなたに広がる景色を見渡す

 現物でしかアクセスできない史実があるという意味で、面白い例が筆者の手許にある。1807(文化4)年8月19日、江戸は深川の富岡八幡宮祭礼の最中に、隅田川に架かる当時最大の橋梁であった永代橋が崩れ、橋の上にひしめき合っていた400人とも数えられる見物人がいっせいに川に投げ出され、河口へ流れ、命を落とした。都市災害として長く江戸・東京の住民の記憶にとどまった重大な事件である。

 しかし当時、リアルタイムで惨事の様子を伝える新聞もなければ、映像も音源もない。唯一の証言といえるものはお祭りの前に配られる祭礼番付や、後日に認められたわずかな手書きの記録以外になく、市民が災害のことをどうとらえ、理解し、記憶していったかをすくい出すことは容易ではない。

 半世紀たって、1860(万延元)年7月。江戸猿若町にあった市村座で河竹黙阿弥作『八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)』(通称『縮屋新助』)という歌舞伎芝居が初演を迎えた。

fullsizeoutput_142d.jpegのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像

劇の第二幕で、永代橋陥落事件を当て込んだシーンが展開する。

橋の上から川に転落する深川芸者美代吉(岩井粂三郎)を、たまたま小船で通りかかった越後の縮屋新助(市川小団次)が抱き留め、のっぴきならぬ状況の中で美代吉への恋慕を告白する。その前に、博徒と鳶の者が橋の上で喧嘩を繰り広げている。巨大な橋は、人間の慾望を複雑に拡大させるシンボルとして描かれ、現代のわれわれが想像するような事故原因の究明や追悼の念など微塵もない。

配役をふくめ演出の仕掛けも初演時に頒布された1冊の絵番付からとらえることができる。芝居にあわせて刷られた、捨てられて当然の「一流」とはほど遠い文献であり、もちろん活字にはなっていない。しかし災害史という文脈から読むと、実に興味深い。その絵は見てわかるが、文字が崩した形でしかアクセスできないとすれば、そこにある人々の理解や感性は越えたい伝統の「壁」に阻まれてしまう。

 ここで言いたいことは、日本人の災害意識の一端を示す絵番付の画像が、仮に国文研のサーバーからアクセスできたとしても、崩し字が読めない大多数の人間にとっては不透明なものであり、時のかなたに広がる景色を見渡すことを可能としない。これからやらなければならないことは、収集をしながら、掛け替えのない人類のストーリーを刻んだ古典籍を選び取り、読めるテクストにし、その先のところで新しい様式や価値に発展させる工夫を重ねてゆくことだと筆者は思う。社会で広く活躍される皆さまの助言とお力添えを心から切にお願いしたいと考えているところである。