April 5, 2017

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九州大学入学式祝辞 「共感」の落とし穴

 九州大学の入学式で祝辞を述べてきました。名誉なことで、身の縮む思いで臨みました。
 
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 建ったばかりの椎木講堂は満員。九大フィル演奏、久保総長の告辞、新入生総代による誓詞、同窓生紹介の後に、来賓すなわち私の祝辞。
 
 人が「いいことをしたい」気持ちって何だろう、という疑問を中心に約10分の話。終わってから、「文字として読みたい」というツイートが流れたので、再録(というより、初めて公開)します。
 
 なお最近、共感の危うさについての優れた考察がいくつか発表されています。今回はとくにPaul Bloomの Against Empathy: The Case for Rational Compassion (New York: 2016年)と
 Frans de Waalの The Age of Empathy: Nature’s Lessons for a Kinder Society (New York: 2010年)を参考にしました。
 関心がある方には、一読をお奨めします。 
 
 
  祝辞
 
 新入生の皆さま、ご入学おめでとうございます。
 ここにおられる皆さんが生まれた頃までの10年間、私はここ九州大学で、日本の江戸時代に書かれた文学を教えていました。外国人として、周りとはまったく異なる言葉や環境の中で育ち、違う経験を積んできた一人の人間に対し、当時の先生方や先輩は信頼を寄せ、私に、初めての仕事を与えてくださいました。
 
 その後、先週の金曜日までの17年間、東京大学の教養学部で同じ日本文学について、たくさんの学生とともに考えてきました。
 
IMG_1121.JPG 毎年の春、皆さんと同じ一年生たちを駒場キャンパスに迎えます。大学で学ぶこととはどういうことなのか。何をどう学習すれば人は充実した生活を築き、自分と、自分の家族、周囲や国、あるいは世界にとって幸福の最大化を図ることができるのか。私たちのことばでいうと「教養」というものが持つ意味、それを身につけるのにどうすればよいのか、をずっと私なりに考え、考えながら教えていました。
 
 教養にはいろんな定義があります。最近よく耳にするものに「他人の目を通じて世界を見る力」というのがあります。共感のキャパシティ、能力、「共感力」と言いかえてもいいでしょうか。英語ではエンパシーといいます。アマゾンで検索しますと「エンパシー」がタイトルに入っている書物は1,500冊以上もあって、現代を読み解くキーワードになっているのも頷けます。
 
 人は時に、自分の利益を台無しにしてでも、他人を助けようとします。人は、人として、善良の方に動こうとします。その選択ができるのも、自分ではない他者の痛みを引き受け、自分のことのように同情する、つまり共感する力があるからだとよく言われます。アメリカのオバマ前大統領も、世界の紛争はエンパシーの不足から起きてくるとよく演説で指摘していました。たとえばイスラエルとパレスチナの問題は、「お互いが相手の靴を履いて地上に立った時にはじめて解決されます」(when those on each side “learn to stand in each other’s shoes”)、そういう名言を残しています。
 
 ごもっともだと私も思いますが、しかし最近、アメリカでも日本でも、知性や理性という力は価値としての位を下げ、人と関わるかどうかについて、ファクトに基づき、ものごとを冷静に、論理的に考える時代は終わった ー 欧米に、共感の時代に警鐘を鳴らす思想家もいます。彼らに言わせると理性は無力で、人間は他者のために働きかけるかどうかを決めるに際し、判事ではなく弁護士である、と。つまり事が起こった後に説明を巧みに並べ立てることを得意とする生き物であるというわけです。
 
 たしかに「協調」、「共生」、あるいは「絆」と言われれば、わたしたちは嫌な感じを起こさないし、頭より腹の底から「同情」が湧いた瞬間にこそ、いじめられているクラスメートを助けたりする経験を誰もが持っていると思います。
 
 しかし理性に裏打ちされない「共感」ほど、危険なものはないと私は考えます。共感とは、目の前にいる、ごく限られた人々、自分と共通点をもつ人間にだけ当てられたピンスポットのようなもので、短期的にその人を苦しみから救うことはあっても、長い目でみるとさらなる苦痛を与えたり、その埒外にいる一層困った人々を見えなくしてしまう作用があります。日本でいうとどうでしょう。ある幼稚園が園児たちに十分な食事を与えていなかった、という報道がされると多くの人は可哀想だと、食い入るようにテレビ画面を見ます。見ますけれど、見えづらい、貧困のために毎日3食を食べられていない子供がすぐ近所にいるかもしれないという厳然たるファクトには、気づいていません。
 
 共感に頼ることで、世界が悪くなることもあります。身近な者への共感が身近でない者たちとの争いを産み出し、暴力に油を注ぎ、戦争を起こさせることがよくあります。今アメリカもEUも、ポピュリズムの風が吹き荒れています。政治家はものごとが事実であるか否かを棚上げにし、共感をひたすら煽ることで「ベース」と言われる支持層を増やし、権力を握ります。トランプ大統領は、政策が行きつまるとツイートを連発します。見ていくと、人の痛みに寄り添う格好で弱者であったり、少数派に対する怒りを扇動し、批判の矛先を交わそうとするものがほとんどです。
 
IMG_1122.JPG 虚報、いわゆるフェーク・ニュースも、「共感」の固まりと言えます。一つの主義主張に固められたコミュニティが客観的なエビデンスに背を向け、その主張を迎えるような報道メディアにだけ目を向けた時に増えるのです。にせ情報は世界中に広まり、今、生き死にに関わる争いの引き金となっています。
 
 まとめますと、エンパシーは重要です。しかし無自覚なエンパシーでは皆さんの、これからの人生を切り拓くことはできません。いや、人生のガイドとして共感はまるで無能であると言った方がいいのかもしれません。
 
 大学でできることは、自分の頭と身体を使って、自らがめざす営みを他者に丁寧に説明する言葉を磨き、ファクトを切り出して、論理と共感という綱渡りを自分に課し、それを繰り返すスキルを身に付けるということに尽きます。これが本来の教養だと、私は考えます。どうぞ本物の知性が何か、それを拓く問いかけをこのキャンパスで見つけていってください。