March 19, 2017

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村上春樹「騎士団長殺し」書評第3弾/『北國新聞』3月17日付夕刊「泣き笑い日本のツボ」より

村上春樹「騎士団長殺し」の書評第3弾を3月17日付けの北國新聞夕刊に寄稿しましたので、ご紹介します。

   

 降り立ての雪のごとく美しい、手入れも行き届いた総白髪の男。ネタバレにならない程度に書くとこうなるだろうか。村上春樹の新作長編小説『騎士団長殺し』に登場する主要人物のひとりで、謎の富豪、主人公「私」が住む山上の谷向かいに一人暮らしする免色渉(めんしきわたる)の風貌である。
 隣人でもあり、肖像画家を生業(なりわい)とする「私」に肖像画を依頼する免色だが、その絵がどんな具合に出来上がってくるかに強い関心を持っている。それも、写真のようにそっくり似ている絵画を期待するのではなく、描き手の「私」に自由に描いてほしい、と懇願している。
 
_DSC7725_124_ATARI.jpgのサムネイル画像 この小説では、人の姿を描くとはどういうことなのか、を何度も問いかけている。絵画小説、あるいは一種の芸術論を内側に秘めた物語であると言ってもいい。「私」は夏目漱石の『草枕』の主人公みたいに、リアリティを描くことに戸惑いを感じている。
 絵筆のモデルとなった免色は、描かれながら「自分の中身を少しずつ削り取られている」気分になる。その分は取られたのではなく、別の場所ーすなわち作品ーに移植されるのだと「私」が言葉を返す。
 段々と心を許す相手に、免色は過去を語り出す。離れてしまった大切な血縁者がいる。顔が自分に「似ているといえばすべてが似ているように思えてきますし、似ていないといえばまったく似ていない」ように覚えている、と。
 はたして出来上がった肖像画は、本人の姿とはほど遠いもので、普通の依頼者なら怒るところを、免色は大喜び。厄介なものを含めて、自分の真実が絵の奥にうっすらと潜んでいるからである。
 
 私は村上の小説に描かれた免色渉という男の肖像から、実在するもう一枚の日本人のポートレートを思い出す。師の50歳を記念して渡辺崋山が1821年に描いた、佐藤一斎像(重要文化財)。洋画の技法を駆使した凛々しくリアルな画面を前に、儒者・一斎は村上と同じように「似ている」ことについて思いを廻らしている。そして画面の上に次の自賛を書き付けている(元漢文、現代語訳は筆者)。
「少しでも私に似ているところがあれば、それは私だと言っても構わない。逆に似ているところがなければそれは私ではない、と言うことも可能だ。しかし似るとか似ないとかいうのは、所詮(しょせん)風貌のことを言うのだ。似る似ないの先にあるものは、『神』である。」
 一斎が言う「神」とは、あらゆるものに流れ、形づくる存在の原理のようなもので、そのものが「本物」、つまりrealであることを保証している。一斎の言葉が続く。
 「『神』というのは、生じもせず滅びもせず、古今もないもので、広がると山川となり、固まると天体となって、集まれば疾風迅雷となり、散るときは煙雲ともなり、宇宙に充ち広がっている。存在しないところはない。それは要するに、似ないものであっても、すべて私であるのだ。ましてや似ているものは、私の『真』ではないと誰が言えようか」。
 人の姿を描きながら現実と非現実を往き来する村上の主人公も、「真実」を探究するヒーローであった。
  
(ブログの写真は、菊池陽一郎さん撮影)