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ROBERT CAMPBELL
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August 28, 2013

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「短篇地獄」 燃える山々(上)

今年の1月から月刊誌『中央公論』で短い連載を書いています。短いから短篇、というわけではなく前から日本の短篇小説を広めの角度から見直してみたいという願望があって、渡りに船。船で渡ってどこに行くかと問われれば、誰も「地獄」と答える人はいないと同じように、わたくしもそこそこ温暖な港を目指して港を出ようと思っていました。しかしあれこれ短篇を読んでいると、いいものほどトーンが熱く、焔が高い。どうせ「恋慕、怨恨、、憤怒、嫉妬の情で心のいらだつのを火の燃え立つ」ようなイメージ(『広辞苑』「ほのお」の項)の世界に連れていかれるのなら、いっそのことひっくるめて「短篇地獄」にしようぜ、そう思いつき、始めた次第です。

よもや会議を通るまいと踏んでいました。しかし数日後、編集者Yさんから電話があって、あっさり「地獄で行こう」ということに。

さて以来、延々地獄の淵を覗き、よい作品を引き上げながら短篇の読みどころばかりを考えています。できるだけ紹介に終わらないように、何か短篇、いや地獄の地平線から生きる上でのヒントみたいなものが出てくると最高です。地獄で説法は要らない、という思いもあるから、あまり邪魔にならない程度にする所存。

ところで本物の地獄巡りを書いた「地獄小説」も沢山ある。ここではむしろ当事者が気づかず、また言い表せないような周囲の小さな地獄に目を凝らし、語ってみようと考えています。そこで皆さま!お好きな「地獄短篇」はありませんか?あればぜひとも当サイトのCONTACTページに移って、耳打ちしてください。合い言葉は「〇〇〇耳」。どんどん寄せてもらえると嬉しいです。

今後随時、「短篇地獄」を「つぶて文字」に再録します。最新回は店頭でお手に取り(できれば買い)、ここではバックナンバーを気軽にめくる気分でご覧下さい。せっかくなので、最初は実際の焔が現れ、クライマックスを飾る2作を重ねることにしました。(上)として、

玄侑宗久の『光の山』(新潮社2013)。

巻末の「光の山」は福島の原発事故から30年、一人の老人が除染作業で出た放射性廃棄物を積み上げ、煌々と光る山を完成させています。シュールな寓話とは対照的な「蟋蟀」では、間近なできごととして東日本震災とその前後を克明に思い起こし、書いています。



 「どうして、くるくる和尚さん、なんですか?」。亜弥は道彦に、住職だった彼の父親を療養施設に見舞った後、車の中でこう切り出したみた。年老いた和尚さんの不思議なあだ名。毎日何度か、立ったまま頭上の虫を追うように両手を差し上げ、ぐるっと廻るのである。奇異な儀式が、二人は驚かせた。
 「蟋蟀(こおろぎ)」は、年長者・道彦が亜弥の問いに答えるために、淡々と述べられている。あの大震災の日に何があったのか。父親は何を目にして、どう感じて心を痛めてしまったのか。道彦の視点に寄り添って語られる災害と、からくも生き残った彼らの現在を行き来している。
 片方が静かに相手に語りかけ、相手がそれを誠実に聞くことで、記憶にしまった互いの核心が一気に浮上してくる。語ことで記憶をひらき、人を受け入れる本来の力を取り戻す人の物語、といってもいいように思う。
 語り合う場所は静寂な寺の仮本堂。対照的に内容は激しく、この世の地獄と見まごうばかりの風景が目の前を駆け抜けていく。読者はいつしか「聞かされる」側の気持ちにすっと入るから、不思議な一体感に包まれる。
 よく知られるように著者は被災地にある、自ら育ったお寺で震災を経験しているので、おそらく私たちが感じるものは安易な被災者「気分」ではない。虚構によって練り直され、純化した「現実」そのものに違いない。数回読むと、その感触は強くなる一方だ。
 津波が襲ってから半年が経過している。お盆がすぎ、萩の花が満開で蟋蟀も鳴く秋の入口に、他人同士である二人はみなしごになったみぃちゃんという五歳の女の子の面倒を見ながら、仮設住宅に移った人々のために炊きだしをしたり、施餓鬼の法会を開き、寺に祀られた戒名のない一〇〇以上の骨壺を守る日々を過ごしている。
 亜弥自身、身内を奪われただけに道彦の長く悲しい話を実によく聞き、最後の方で、和尚さんがなぜ「くるくる」するかを、亜弥が答えている。命をかけた、美しい問答である。

flaming bush.JPG