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April 27, 2017

『時局』5月号インタビュー(その2)

名古屋発の月刊ビジネス情報誌『時局』5月号にロングインタビューが掲載されました。昨日に引き続き、後半部分をご紹介します。

  

「現代を斬る」ー古典文学に刻まれた真実で現代社会の足元を照らすー

 

虚構の中にある真実を見る

  ―― 国際的なネッワークの構築も進んでいきそうです。

時局写真(その2).jpg キャンベル はい。国際共同研究というものは非常に重要ですから、既に前館長の下で、韓国、中国といった近隣諸国の研究者たちにはたくさん来ていただいていますが、さらに欧米、アフリカ、南米といったいろんな地域の人たちと一緒に、日本文学に限らないクロス研究、超域的、学際的な研究を実現していきたいと思っています。

 あるいは市民講座を含めていろいろな機会を設けて、世界の研学者、世界の文学愛好者と日本の人々をクロスさせながら、いろんな化学反応を起こしていく。私は、材料はもう集まっていると思うんです。あとはどのような問いかけをするかによって、日本文学から、いまや世界中で認められている和食であったり、素晴らしい工業デザインであったり、おもてなしであったりという、いろんな日本文化の根っこにあるものが何かということを感じ取ってもらう。あるいは考えさせる材料が、立川の国文研にあるんです。

 そして、それを扱っているエキスパートの教員と事務方もたくさんそろっているので、アーカイブとしてはもちろん、多様な人たちが集まり、他流試合ができるような場所に一層していきたいですね。

 ―― 具体的にはどのような分野とのクロス研究が可能なのでしょう。

 キャンベル 例えば、江戸時代の料理本研究会があります。レシピ集がたくさんあるんです。レシピと言うとクッキングに関わることですから一般の方もすごく興味を示すと思うんですね。でももう一つ、クッキングというのは命そのものです。特に江戸時代以前は周期的に飢饉がおとずれていましたから、食が安定的にいつでもありつけるときと、供給されないときとでは、食材、保存法、調理法などがどう変わっていったか、人々がどう生き抜いていったかが、実は料理本であったり食の文献の周辺にたくさんの非常に重要な証言があるんですよ。

 現在も日本は、食の自給率が低いと言われていて、国家安全の中で食は重要視されるわけでしょう?

 ―― 確かに、今の時代にそんなことは...と能天気に構えていてはまずいですね。

 キャンベル 震災や水害などの災害が起こった後に、社会が、人々が、村であったり、町であったり、藩であったり、その地域をどのように再生させていったかというプロセスや事例も文学作品の中からたくさんくみ取ることができます。あるいは復興に一応のめどが立つと、人間はそれを忘れようとする生き物です。その時の人々の姿はどうであったかを知ることは、いろんな角度から社会をとらえ直し、私たちの足場を見直すきっかけになり、非常に重要なことです。

 もちろん歴史書にも書かれていますが、ハードの部分はさておき、事が起きた後に、あるいは起きている最中に、人々はどのようにそれに対して適応したのか、社会の蘇生力や、その災害が社会や文化の特徴にどうつながっているかについては、文学作品といわれているものの中にこそ刻まれていると思うんです。文学というのはだいたい虚構ではあるけれど、何もないところから生まれものではありません。あたかもそれが現実であるかのようなリアリティーをもった作り物であるからには、記録からはすくい取れない「真実」がその中にあると思うんです。そしてそれが逆に文学の定義だと言っていいと私は思います。

 

共通の土俵となる古典文学

 

時局写真(その3).jpg ―― 近代の作品ではなく、古典であることにも意味はありますか。

 キャンベル ええ、200年前、300年前、まして1000年前の文学作品というのは生々しくないわけですよ。もう過去のことで、書いた人も関わった人もおらず、今の誰の利権にも関わっていないので、〝共同の土俵〟になりうるのです。誰もが自分の理非や損得を考えずに、一つの土俵に降り立ち、その中で語り合えるものが、文学、とくに古典の文学なんです。

 そういった〝土俵〟の一つとして、この国文研自体をみていただけるんじゃないかなと思っているというか、つくってみたいなと思いますね。

 ―― 古典文学を俎上に載せて、さまざまな分野の人が何にも捉われず、自由に好き勝手な発言をし合えると。

 キャンベル そう、好き勝手。それって大事ですよ。なぜ私が確信をもって言えるのか。私は長くラジオやテレビ、あるいは活字媒体で、文学研究とはかけ離れた方々と対談をしてきています。そして本の話をするのですが、バレリーナ、和紙職人、政治家、スポーツ選手など、いろんな分野で活躍している人が、文学に対して持ち込むいろんな感覚、知恵などが、ものすごく面白い。彼らはわれわれのようにワンポイントで研究している者が気付かないような側面であったり、光や影の当たりといったものを、作品の中に次々と見出していくんです。

 例えば建築家は、その作品の中で空間がどう描かれ、空間としてどうなっているかといったことにとてもこだわるんです。突然空間が見えなくなっているとか、どうしてここはそんなにシャープに空間を描かざるを得なかったのかとか――という読み方をするわけです。

 そしてそうすることで、その時代の人々が、空間や建造物に対して期待しているもの、持っている心と、現在の私たちが描いている、使っている空間に対する見方というものの違いを、彼らは発見します。それは彼らにとってもプラスになるようで、「面白かった」と言われることが、私の個人的な経験でたくさんあるんです。

 ―― まさに化学反応ですね。

 キャンベル 日本文学研究者たちはもっと積極的に社会に手を差し伸べて、日本文学がカルチャーとして、人々に元気や勇気を与える、あるいは逃げ込む場所、ちょっと雨宿りができる場所を与えるというようなことを見せるべきだと感じます。

 

継承されてきた意味を問う

 

 ―― 文学研究そのものの未来についてはどう感じられますか。

 キャンベル 私は東京オリンピック・パラリンピックに向けたいくつかの委員会に関わっているのですが、日本のカルチャーの棚卸しをして、それをどう発信していくかという取り組みが今、至る所でなされています。しかしその中にアニメやマンガはあっても、言葉で書かれた日本文化である「文学」が入っていないことにすごく危機意識を持っています。

 全体的に活字離れが言われていますし、またそれとは別に、わかりやすさがとても重要視されている時代になっています。少しでもわかりにくい、映像のようにすっと文字が頭に入ってこないものに、人々が背を向けるという傾向があると思うんです。

 ―― しかも、文語体の文章やくずし文字は、現代の一般的日本人には難解です。

 キャンベル そうですね。日本語は英語やフランス語、ドイツ語と違って、短い間に言葉ががらりと変わったという歴史的な事実があります。明治時代に、しゃべっている言葉と書き言葉との言文一致が起きて、それ以降、その前に通じていた書き言葉は、一般の人からどんどん遠くなってしまいました。日本人自らが溝を作ってしまったんです。

 私などはその溝があるからこそ面白いといいますか、ほんの200年前の人々の心や日常を表すのに、今と違う言葉を使っていて、それが現代の日本語にもつながっているということに、とても魅力を感じるのですけど、国文学を専門としていない一般の人は、「読めないよ!」と、一瞬の判断で目をそらしてしまうわけです。でも、そこには恋愛の問題であったり、未来に対する不安であったり、希望であったり、切実なこととして語り合われていて、そこに耳を傾けると、自分の住んでいる場所につながっていたり、いろんな〝水脈〟がつながっている。そこを全部遮断するというのは、あまりにももったいない。

fullsizeoutput_1427.jpeg 大量に蓄積している重要な文化資本を、現代の日本語話者――それは、日本人とは限らないですね、私も日本語話者の一人ですから、広く日本語話者にもっとわかるようにしつつ、その中に、まだ十分にくみ取られていない知恵であったり、場合によってはわれわれに対する過去からの忠告であったり、そういったものを、それぞれの専門、それぞれ立場から発見していかなければならないと思うんですね。それをどう促していくかが、私の課題の一つです。

 200年前、300年前、さらには日本の場合1000年前の、人々の軌跡、足跡である書物が、その時点で書かれたものということだけでなく、捨てられずに継承されてきたことの意味を考え、それらを一つ一つ見ていくと、私たちがいま直面していることの選択や判断と、かなり密接につながりうるところがあると思うんですね。

 社会的条件が大きく変わっていることをある程度知ったうえで、日本という同じ空間、共通する自然、風土の中にいた人たちが経験したこと、その経験に基づいて言い伝えられてきたこと、言おうとしていたことに耳を傾けることは、現在、そして未来を見据える一つの重要な方法、材料になるはずです。そして、そのためにできるいろいろなことを、スタッフと一緒に考えて、着実にやっていきたいと思っています。

 ―― ありがとうございました。

   

   

April 26, 2017

『時局』5月号インタビュー(その1)

名古屋発のビジネス情報誌『時局』5月号にロングインタビューが掲載されました。2回に分けてご紹介します。

  

「現代を斬る」ロバート キャンベル インタビュー

 ー古典文学に刻まれた真実で現代社会の足元を照らすー

 大学共同利用機関法人・人間文化研究機構の国文学研究資料館館長にこの4月、ロバート キャンベル氏が就任。在日歴が30年以上におよび、長年日本文学研究に携わってきた同氏は、日本の古典籍は今に生かせる大きな財産だと語る。

 

―― 4月1日付で東京大学大学院教授から国文学研究資料館館長となられましたが、ここは45年の歴史を持つ機関ですね。

時局写真(その1).jpg キャンベル 日本文学に関わる人々が力を合わせて作られたものです。

 近代以前の写本や版本――今の言葉でいう〝紙媒体〟の資料が、日本では天災などが多いにも関わらず、北東アジアの国々、朝鮮半島や中国に比べてもたくさん残ってきました。中国ですと、王朝が変わるごとに文献が破壊されたりしていますが、日本には過去の文献というものをとても大切にし、伝承する文化があると私は感じています。しかし、そういったものが関東大震災や第二次世界大戦の戦災でたくさん失われてしまいました。設立に尽力した人は戦中に青年時代を過ごした世代で、文化財というものがいかに壊れやすく失われやすいかを、たぶん心に深く刻んだのでしょう。

 そして戦後、特に高度成長期に入ると、日本の精神文化がどんどん削がれていく状況の中で、それを形としてとどめている一番のモノである文献、言葉として、表現として、何百年も前の人々が残した証言を、とにかく保存、保管し、次の世代にという切実な問題意識を抱いていたと思います。

 ―― 具体的な事業内容は。

 キャンベル 根幹の事業としてやってきたのは、日本全国津々浦々、そしてそこから全世界に流出した近代以前の古典文学作品原本の書誌学的な調査。つまりデータ収集です。何がどこにあり、その本がモノとしてどのような特質を持ち、版本であれば、それが早い時期の刷りなのか、後の刷りなのか、いつ印刷されたのかがわかる調書を取る。そして写真機で一丁、一丁、全部撮っていき、全編の画像収集を行い、それをマイクロフィルムとして現像。2セット作って、一つを当時は品川区の戸越銀座にあった国文研に保管し、研究者や一般の方々にそれを開放することで活用。もう一つは深い山の中に保管し、劣化しないように管理してきました。そして今は電子画像として撮影し、公開しています。

 ―― 随分徹底した保存体制ですね。

 キャンベル 冷戦時代ということもあったのでしょう。どんなことがあっても、日本の言語文化が遺産として人類に残るようにと、まさに国家百年の計として始まった事業なのです。

 所有者の都合もあったり、さまざまなことが起きる可能性があるので、実物を全部東京に持ってこさせることはできません。東京でやっていることはほんの一部の事で、北海道から沖縄までを5ブロックくらいに分けて、古典文学を専攻している教員や大学院生たちの協力を得てチームを組み、国文研のスタッフが現地に赴いて現地の専門家と一緒にその作業をやっていくわけです。私も九州にいた若い時に調査員をやりました。

 ―― その取り組みは今も?

 キャンベル そうです。これからも私が館長の間、ずっと続けられる予定です。

 

発信だけでなく使える情報に

 

時局写真(国文研).jpg ―― 現在は立川市役所近くにあるこちらの施設内には、参考図書がすべて開架になっている閲覧室や展示室などがありますが、ウェブ上でのサービスも早くから実施されているようですね。

 キャンベル 私たちのウェブサイトはヘビーユーザーがたくさんおられます。日本の東京、立川まで足を運ばないと、施設を使うことはできませんけれど、ウェブサイトを通じてたくさんの画像や情報、あるいは独自に作ったデータベース、ほかの方や組織が作ったデータベースへのリンクもしてあり、世界のどこからでも、いろんな形で使えるんです。

 国文学でも古典籍のジャンルは近代の本に比べればかなり広く、絵本であったり、教育に関わる本、宗教に関わる本といったものも、当時の文学の大きな範疇に入るわけで、すごく広範囲な本を収集しており、国文研、あるいはここのウェブサイトに来れば、それらすべてを探検したり読むことができるようにしているんです。これはここの仕事の一丁目一番地としてやっていることです。

 しかし、今の世の中では公開することは当たり前のことになりつつあると思うんです。これからは公開したものを、受け手側が十分に活用できるのかということも問われます。日本国民、そして世界中で日本文学に興味を持っている方々に、江戸時代の書物をそのまま公開しても、読めないですよね。

 ―― ええ、くずし文字など形として美しいとは思いますが、読めません。

 キャンベル 月の裏側から降ってわいてきたような文字で素敵なものですが、橋渡しをしないといけない。そして、ここが大事なことですが、ここのようにその国全体の、近代以前のすべての書物、あるいは作品を全部収集し、活用していく機関は世界に例がないものです。イギリスやフランス、ドイツあたりにありそうですが、ただアーカイブしていくだけでなく、活用しているのはおそらく日本だけなんです。

fullsizeoutput_1427.jpeg ―― そんな組織のトップとして取り組んでいかれたいことは。

 キャンベル 私がぜひ実現に貢献したいと思っている事業の一つが「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」という大型研究プロジェクトです。いままで集まってきた膨大な書誌データ、画像データに加え、30万点の新たなタイトルについて調査をし、画像データを収集。それらを統合して日本語の歴史典籍データベースを作成しようというもので、10年計画で2年前から開始しています。拠点機関が全国各地のほか海外にもあり、各地域の資料の画像データ化を加速的にやります。

 そうした国文研の仕事のことなど、SNSを使って皆さんに声が届くようにしたいですし、ただ発信するだけでなくて、声を拾える工夫もしたいといろいろ考えています。

 そしてもう一つ、ウェブサイトに一応英語バージョンはあるのですが、あまり生きていないのを改善したいですね。よくあることですけど、決まったページが英語になっているだけで、あまり更新もされていません。もっとビビッドに、実際に今、国文研でやろうとしていることが伝わる形で、多言語化していくことが重要だと思っています。

  

(続きは、明日のブログにて)

April 14, 2017

言葉の四隅に意味がある。朝日新聞「ひと」

10000000000000067329_20170414155306035569_P170412000584.JPGのサムネイル画像 4月13日(木)朝日新聞朝刊2面「ひと」欄で紹介されました。全文をご紹介します。

  

ロバート キャンベルさん 国文学研究資料館長に就任した。

 言葉の四隅に意味がある――。幾重にも意味を帯びる日本語を、そう例える。たとえば「絆」は、自由を妨げる手かせ足かせを意味する「絆(ほだ)し」とも読ませ、心の機微を映し出す。

 日本文化をいとおしみ、40年余り。この春、古巣でもある大学共同利用機関「国文学研究資料館」(東京・立川)の第7代館長に、外国人として初めて就いた。東京大大学院教授からの転身である。

 米ニューヨーク出身。「ガヤガヤと移民のルーツが交じりあう」下町で育ち、異文化の実相をつかむ力が身についた。15歳の頃、日本の映画や建築と出会った。奥行きの深さに魅了され、江戸から明治の文学を学ぶ。32年前、九州大研究生となり、以来、日本で暮らしてテレビでもおなじみだ。

  

 日本に関する世界中の資料を集める資料館には、画像データだけで20万点。崩し字、漢文、候文とまちまちで、しかも大半が活字になっていない。「でも、それらは宝の山なのです」。江戸期の飢饉(ききん)で上がる米価を見て、やりくりでしのぐ人々の姿が目に浮かび、胸をつかれたこともあった。

 在任中に画像を倍以上に増やし、データベースとして一般にも広める方針だ。「資料は千年以上の精神文化を伝える知恵の養分。生きづらいと感じている人のヒントにもなる。英語圏で育った感覚をいかし、海外にも伝えたい」

 (文・木元健二 写真・越田省吾)

  

朝日新聞社に無断で転載することは禁止されています。承諾書番号「A17-0126」

  

  

(c)朝日新聞社   

April 5, 2017

九州大学入学式祝辞 「共感」の落とし穴

 九州大学の入学式で祝辞を述べてきました。名誉なことで、身の縮む思いで臨みました。
 
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 建ったばかりの椎木講堂は満員。九大フィル演奏、久保総長の告辞、新入生総代による誓詞、同窓生紹介の後に、来賓すなわち私の祝辞。
 
 人が「いいことをしたい」気持ちって何だろう、という疑問を中心に約10分の話。終わってから、「文字として読みたい」というツイートが流れたので、再録(というより、初めて公開)します。
 
 なお最近、共感の危うさについての優れた考察がいくつか発表されています。今回はとくにPaul Bloomの Against Empathy: The Case for Rational Compassion (New York: 2016年)と
 Frans de Waalの The Age of Empathy: Nature's Lessons for a Kinder Society (New York: 2010年)を参考にしました。
 関心がある方には、一読をお奨めします。 
 
 
  祝辞
 
 新入生の皆さま、ご入学おめでとうございます。
 ここにおられる皆さんが生まれた頃までの10年間、私はここ九州大学で、日本の江戸時代に書かれた文学を教えていました。外国人として、周りとはまったく異なる言葉や環境の中で育ち、違う経験を積んできた一人の人間に対し、当時の先生方や先輩は信頼を寄せ、私に、初めての仕事を与えてくださいました。
 
 その後、先週の金曜日までの17年間、東京大学の教養学部で同じ日本文学について、たくさんの学生とともに考えてきました。
 
IMG_1121.JPG 毎年の春、皆さんと同じ一年生たちを駒場キャンパスに迎えます。大学で学ぶこととはどういうことなのか。何をどう学習すれば人は充実した生活を築き、自分と、自分の家族、周囲や国、あるいは世界にとって幸福の最大化を図ることができるのか。私たちのことばでいうと「教養」というものが持つ意味、それを身につけるのにどうすればよいのか、をずっと私なりに考え、考えながら教えていました。
 
 教養にはいろんな定義があります。最近よく耳にするものに「他人の目を通じて世界を見る力」というのがあります。共感のキャパシティ、能力、「共感力」と言いかえてもいいでしょうか。英語ではエンパシーといいます。アマゾンで検索しますと「エンパシー」がタイトルに入っている書物は1,500冊以上もあって、現代を読み解くキーワードになっているのも頷けます。
 
 人は時に、自分の利益を台無しにしてでも、他人を助けようとします。人は、人として、善良の方に動こうとします。その選択ができるのも、自分ではない他者の痛みを引き受け、自分のことのように同情する、つまり共感する力があるからだとよく言われます。アメリカのオバマ前大統領も、世界の紛争はエンパシーの不足から起きてくるとよく演説で指摘していました。たとえばイスラエルとパレスチナの問題は、「お互いが相手の靴を履いて地上に立った時にはじめて解決されます」(when those on each side "learn to stand in each other's shoes")、そういう名言を残しています。
 
 ごもっともだと私も思いますが、しかし最近、アメリカでも日本でも、知性や理性という力は価値としての位を下げ、人と関わるかどうかについて、ファクトに基づき、ものごとを冷静に、論理的に考える時代は終わった ー 欧米に、共感の時代に警鐘を鳴らす思想家もいます。彼らに言わせると理性は無力で、人間は他者のために働きかけるかどうかを決めるに際し、判事ではなく弁護士である、と。つまり事が起こった後に説明を巧みに並べ立てることを得意とする生き物であるというわけです。
 
 たしかに「協調」、「共生」、あるいは「絆」と言われれば、わたしたちは嫌な感じを起こさないし、頭より腹の底から「同情」が湧いた瞬間にこそ、いじめられているクラスメートを助けたりする経験を誰もが持っていると思います。
 
 しかし理性に裏打ちされない「共感」ほど、危険なものはないと私は考えます。共感とは、目の前にいる、ごく限られた人々、自分と共通点をもつ人間にだけ当てられたピンスポットのようなもので、短期的にその人を苦しみから救うことはあっても、長い目でみるとさらなる苦痛を与えたり、その埒外にいる一層困った人々を見えなくしてしまう作用があります。日本でいうとどうでしょう。ある幼稚園が園児たちに十分な食事を与えていなかった、という報道がされると多くの人は可哀想だと、食い入るようにテレビ画面を見ます。見ますけれど、見えづらい、貧困のために毎日3食を食べられていない子供がすぐ近所にいるかもしれないという厳然たるファクトには、気づいていません。
 
 共感に頼ることで、世界が悪くなることもあります。身近な者への共感が身近でない者たちとの争いを産み出し、暴力に油を注ぎ、戦争を起こさせることがよくあります。今アメリカもEUも、ポピュリズムの風が吹き荒れています。政治家はものごとが事実であるか否かを棚上げにし、共感をひたすら煽ることで「ベース」と言われる支持層を増やし、権力を握ります。トランプ大統領は、政策が行きつまるとツイートを連発します。見ていくと、人の痛みに寄り添う格好で弱者であったり、少数派に対する怒りを扇動し、批判の矛先を交わそうとするものがほとんどです。
 
IMG_1122.JPG 虚報、いわゆるフェーク・ニュースも、「共感」の固まりと言えます。一つの主義主張に固められたコミュニティが客観的なエビデンスに背を向け、その主張を迎えるような報道メディアにだけ目を向けた時に増えるのです。にせ情報は世界中に広まり、今、生き死にに関わる争いの引き金となっています。
 
 まとめますと、エンパシーは重要です。しかし無自覚なエンパシーでは皆さんの、これからの人生を切り拓くことはできません。いや、人生のガイドとして共感はまるで無能であると言った方がいいのかもしれません。
 
 大学でできることは、自分の頭と身体を使って、自らがめざす営みを他者に丁寧に説明する言葉を磨き、ファクトを切り出して、論理と共感という綱渡りを自分に課し、それを繰り返すスキルを身に付けるということに尽きます。これが本来の教養だと、私は考えます。どうぞ本物の知性が何か、それを拓く問いかけをこのキャンパスで見つけていってください。
March 26, 2017

「鎮守の森の教室」4月8日(土)宇佐神宮にて開催

 宇佐神宮の森をいっしょに歩き、考える旅に出ませんか。


d7448c3393296da4608d16b84891d239.jpgのサムネイル画像 災害からいのちを守る森づくりを目指す公益財団法人「鎮守の森のプロジェクト」が開く「鎮守の森の教室」。
 昨年6月の明治神宮「森の教室」では、近代都市の森林を隅々まで歩き、「すぐ側の大自然」を満喫しました。

 今回は、古代から綿々と受け継がれる八幡社総本宮の森に分け入り、散策しながら植物エキスパートの話を聞くことができます。
フィールドワークに先だち、東日本大震災の際に宮城県岩沼市で陣頭指揮を執られた井口経明前市長の講話などがあります。

4月8日(土)9:30〜、大分県宇佐市の宇佐神宮参集殿でスタート。申込方法は、こちらをクリックしてください。
私も参加します。鎮守の森で待っています!

March 24, 2017

英国科学雑誌"Nature"/日本の科学力に警鐘

fullsizeoutput_137c.jpegのサムネイル画像 最新のイギリス科学雑誌「ネイチャー」別冊で、日本の科学研究の失速を取り上げ、先行きに強い警鐘を鳴らしています。具体的で、説得力に富んだ特集です。

 ドイツや中国、韓国などが研究開発への支出を増やすなか、日本は10数年間大学が人件費に充てる交付金を減らし、その結果短期雇用の研究者が大幅に増え、若い研究者が科学技術研究に背を向けている現状を原因として挙げています。

 私の観点からしてもその通りで、日本の大学は、人生設計が描けない任期付き、プロジェクトベースの特任研究員ばかりを増やしたことで、言葉は悪いが、知的エリートの下層階級を自らの中に作ってきた責任が大きい。文系でも、浮かばれない場所を優秀な若者は選びません。
「日本の科学研究は転換点にあり、次の10年で成果を出さなければ科学研究でトップの国という地位を失いかねない」。

  

NHK NEWS WEB 「英科学雑誌 日本の科学研究の失速を指摘」
http://www3.nhk.or.jp/ne.../html/20170323/k10010921091000.html

     

March 19, 2017

村上春樹「騎士団長殺し」書評第3弾/『北國新聞』3月17日付夕刊「泣き笑い日本のツボ」より

村上春樹「騎士団長殺し」の書評第3弾を3月17日付けの北國新聞夕刊に寄稿しましたので、ご紹介します。

   

 降り立ての雪のごとく美しい、手入れも行き届いた総白髪の男。ネタバレにならない程度に書くとこうなるだろうか。村上春樹の新作長編小説『騎士団長殺し』に登場する主要人物のひとりで、謎の富豪、主人公「私」が住む山上の谷向かいに一人暮らしする免色渉(めんしきわたる)の風貌である。
 隣人でもあり、肖像画家を生業(なりわい)とする「私」に肖像画を依頼する免色だが、その絵がどんな具合に出来上がってくるかに強い関心を持っている。それも、写真のようにそっくり似ている絵画を期待するのではなく、描き手の「私」に自由に描いてほしい、と懇願している。
 
_DSC7725_124_ATARI.jpgのサムネイル画像 この小説では、人の姿を描くとはどういうことなのか、を何度も問いかけている。絵画小説、あるいは一種の芸術論を内側に秘めた物語であると言ってもいい。「私」は夏目漱石の『草枕』の主人公みたいに、リアリティを描くことに戸惑いを感じている。
 絵筆のモデルとなった免色は、描かれながら「自分の中身を少しずつ削り取られている」気分になる。その分は取られたのではなく、別の場所ーすなわち作品ーに移植されるのだと「私」が言葉を返す。
 段々と心を許す相手に、免色は過去を語り出す。離れてしまった大切な血縁者がいる。顔が自分に「似ているといえばすべてが似ているように思えてきますし、似ていないといえばまったく似ていない」ように覚えている、と。
 はたして出来上がった肖像画は、本人の姿とはほど遠いもので、普通の依頼者なら怒るところを、免色は大喜び。厄介なものを含めて、自分の真実が絵の奥にうっすらと潜んでいるからである。
 
 私は村上の小説に描かれた免色渉という男の肖像から、実在するもう一枚の日本人のポートレートを思い出す。師の50歳を記念して渡辺崋山が1821年に描いた、佐藤一斎像(重要文化財)。洋画の技法を駆使した凛々しくリアルな画面を前に、儒者・一斎は村上と同じように「似ている」ことについて思いを廻らしている。そして画面の上に次の自賛を書き付けている(元漢文、現代語訳は筆者)。
「少しでも私に似ているところがあれば、それは私だと言っても構わない。逆に似ているところがなければそれは私ではない、と言うことも可能だ。しかし似るとか似ないとかいうのは、所詮(しょせん)風貌のことを言うのだ。似る似ないの先にあるものは、『神』である。」
 一斎が言う「神」とは、あらゆるものに流れ、形づくる存在の原理のようなもので、そのものが「本物」、つまりrealであることを保証している。一斎の言葉が続く。
 「『神』というのは、生じもせず滅びもせず、古今もないもので、広がると山川となり、固まると天体となって、集まれば疾風迅雷となり、散るときは煙雲ともなり、宇宙に充ち広がっている。存在しないところはない。それは要するに、似ないものであっても、すべて私であるのだ。ましてや似ているものは、私の『真』ではないと誰が言えようか」。
 人の姿を描きながら現実と非現実を往き来する村上の主人公も、「真実」を探究するヒーローであった。
  
(ブログの写真は、菊池陽一郎さん撮影)
March 18, 2017

フライデー・ナイト・ミュージアム@上野

 上野の杜にある国立美術・博物館の夜間開館をきっかけに、文化庁他主催で「フライデー・ナイト・ミュージアム@上野」なる愉しい企画をやっています。

  

    
17362922_1456869714337378_9187860768264302883_n.jpg 昨夜は国立西洋美術館でその一つとして、50分ほどのトーク・セッションを行ってきました。

 林暁甫さん(NPO inVisible)によるナビゲーションを便りに、研究員・袴田紘代さんとともに展覧会体験のデザインについて語り合う内容でした。

17361938_1456866471004369_8575248988973366703_n.jpg
 美術展示が持つ様々なストーリーを形にし、来訪者と一緒に拡張するメソッドをめぐって、国内外の事例を参考にしながらかなり具体的な話ができてよかったように思います。しかしやはり50分は‥‥短い。

  

 

 僕らが大好きな国立西洋美術館が世界遺産になったことを転機に、ふだん美術館に足を運ぶ機会がない方々もアートの空間を満喫できるのにどういうすればいいのか、何が足りないのか、について考え続けていきたいと思っています。
17362911_1456869224337427_4052266811140672585_n.jpgのサムネイル画像17342819_1456869461004070_8949682987445899882_n.jpgのサムネイル画像

March 13, 2017

サルー・ブライアリーさんとの対談/映画『LION/ライオン』

IMG_1024.jpg4月7日公開、映画『LION/ライオン』主人公のモデルであり、原作者でもあるサルー・ブライアリーさんと都内のホテルで対談しました(「週刊朝日」に掲載予定)。

  

凄まじい実話です。5歳で間違って乗り込んだ列車で数百キロ離れたコルカタに運ばれ、ストリートチャイルドになり、孤児院からやっとオーストラリアに住む養親のもとへと流れる少年サルーは、大人になってから奪われた記憶を取り戻すべく行動に出ます。

  

僕も物心つく前に親と離れ、大人になって初めて探し、再会するという経験を持っています。サルーさんの体験は人ごととは思えず、映画も原作も、ご本人との会話も、深く心に響きました。

 

gaga.ne.jp/lion/

   

   

   

March 12, 2017

村上春樹新作評『天理時報』3月12日付「キャンベル教授のニッポン再発見」より

2弾目となる『騎士団長殺し』の書評です。

   

 7年ぶりの本格長編とあって、村上春樹の小説『騎士団長殺し』は発売時からメディアの話題をさらい、すでに130万部を発行して、先週から各紙の読書欄を賑わせている(筆者も3月8日付『朝日新聞』朝刊に書評を寄せた)。上下巻計1千ページ以上もある分厚い作品なだけに、読むのに相当な覚悟は要るけれど、東京のハルキストたちは先週末あたりから街の喫茶店で新作に首ったけであった。
 私は仕事の合間に、書斎で丸3日間かけてやっと読み終えた。おそらくこの文章が読まれている間にも、アメリカや中国、韓国などで多くの翻訳者たちが手分けをして、この不思議な物語を理解し、自分たちの言語に置き換える作業に着手していることだろう。


 読むのにかかるこちらの時間も長いけれど、物語の中に展開する時間はもっと長い。以下、あらすじを多少詳しく説明する(未読の方はご注意を)。

 主人公「私」の職業は肖像画家である。36歳の春、6年東京で共に暮らしてきた妻から離婚を切り出され、あてもなく車を走らせる。落ち着いた先は、友人の父親で、著名な日本画家が持つ小田原市郊外の山中にあるアトリエ兼自宅。留守番みたいな格好で住まわせてもらう。ここで9カ月間、静寂過ぎるほどの自然の懐に抱かれた暮らしが始まる。
IMG_1013.JPGのサムネイル画像 単調な画家の日々に不気味な風が吹くのは夏から初秋のころ。たとえば、夜中の決まった時間に敷地内の古い祠の近くから、鈴の音が微かに聞こえてくる。以前に出会い、肖像画の制作を依頼してくる白髪の男と音源を探るが、そこには地下に掘られた空っぽの石室があるばかり。
 そして「私」は、屋根裏で「騎士団長殺し」と題された一枚の日本画を見つける。それは飛鳥時代の衣服を着込んだ男女の絵で、「息を呑むばかりに暴力的な絵だった」。
 その間、時代は日中戦争、ナチスドイツによる併合前後のオーストリア・ウイーン、「私」が15歳のときに喪った妹との平穏な日々と、自在に往き来する。「私」は、そのような混乱の中でも何枚もの絵を描き続ける。そして人間の姿を絵に描くことの意味を、自分に問う。


 優れた肖像画は、写真のように客体を正確に再現するのではなく、対象のエッセンスを取り込み、解体して、キャンバスの上に組み直す。単なる外見では窺い知れない、謎をも含んだ「真実」を描き切ったものだ。「私」は、そう覚る。
 何が真実で、何が嘘かが見分けづらくなった今の世界にあって、エッセンスを取り込み、謎が残ることも受け入れ、しかし同時に、真実を淡々と語り合う努力を止めないことこそが、求められているのではないか。長い小説を読み終えて、私にはそんな読後感が残った。ファンタジーな長編小説に、現実に向けたシャープな問いかけが、いくつも埋もれているように感じた次第。